読みやすさという価値のこと

ずいぶん前から作っていた原稿が、ようやく本として出版された。出来上がった本を、原稿の下読みを手伝ってくれた若い先生がたにあげたんだけれど、「ずいぶん読みやすくなったんですね」なんて驚かれた。

みて分かりにくいものの価値について。

読みやすさは分からない

原稿の読みやすさという価値は、本というプロダクトを外から眺める人から見ても、分からない。世の中には、読みやすい本と、読みにくい本とは確実にあるけれど、同じ原稿を、作者が書いたそのままを本にしたものと、編集者が手を加えて、読みやすくしたものと、両者を比較できる機会というのは、そう滅多にないだろうから。

読みやすさは、たぶん作者の側からも、よく分からない。本を書いている側は、同じ原稿を、本になるまでに何十回も読み返すから、編集者が原稿に手を入れる最終段階になると、もう書いた内容の大半を暗記してしまう。その内容に慣れすぎてしまって、今さらそれが読みやすくなったのかどうか、感覚が摩滅して、もう分からない。

若い人たちに下読みをお願いしたのはリビジョン1以前の印刷原稿、上の先生方に査読をお願いして、それを原稿に反映させたものがリビジョン2からリビジョン60ぐらい、そこからさらに、編集部の方々が手を加えて、原稿が最終的に出来上がったのがリビジョン120だったから、最初の原稿と、今本になっている原稿と、120世代の開きはあるんだけれど、おおざっぱな内容それ自体は、そんなには変わらない。原稿は、当初からLaTeX を使って書かれていたから、最初の段階で、表題と目次、索引もついて、体裁としてはすでに「本」だった。

下読みをお願いした若い先生がたは、だから比較的厳密に、編集という作業の意味を体験できたんだと思うけれど、感覚されたそれは分かりやすさであって、ぱっと見て、その差はすぐに分かるものだった。

「こうすればいいのに」が価値になる

販売された本を買って下さった方々は、編集作業を経た、完成品としての本を読むことしかできない。

編集者の仕事は、読者の側からは見えないし、作者の側は、その時はもう、自分の文章に慣れすぎて、やっぱりその仕事を観測できない。一切の編集が為されなかった原稿が本になったとして、読者の人たちは、それを「読みにくい」と思うかもしれないけれど、「これがちゃんと編集されたらよかったのに」なんて感想は、たぶん出てこない。

「その価値を観測できる人がいない」仕事は、相手から安く見られる。一方的にボランティア認定されたり、コストカットが必要な状況にあって、「そんなものいらないよ」、なんて言われたりする。

見開きの状態で、本は2ページ分の情報が一覧できる。ページをめくる動作で、頭は一度リセットされて、次のページに記載された、新しい情報を受け入れる準備を始める。読書というのは断続的な動作の連続で、そのリズムに合わせて情報を上手に配分することで、はじめてそれは「本」になって、「読書」という体験を生む。テキストベタうちの文章には、そうしたリズムは存在しないし、文章を書いているときにはページ割りなんて考えないから、京極夏彦みたいな人でもないかぎり、原稿にリズムをつけて、情報を本としてまとめるためには、やはり技量の高い編集者というものが必要なのだと思う。

リズムのない本というのは、「読みにくい」といわれることもなく、「もっとちゃんとした編集を」なんて感想を持たれることもなく、ただ単に読まれなくなる。読まれなかった原因は、もしかしたら内容それ自体じゃなくて、「それが本になっていなかった」ことにあるかもしれないのに、そうだとしたら、すごくもったいない気がする。

「こうすればいいのに」なんていう想像が、ユーザーの側から出てくることが、何かの技量を商売に結びつけていくときには大切になる。「読みやすくなりましたね」なんてびっくりされて、自分ははじめて、あぁ編集の人ってすごいんだなんて、そんなことを考えてた。