配列からの自由がほしい

電子媒体でものを書くときに感じる不自由さについて。

カーソル移動が不便

それは電子カルテもそうだし、あるいはblog を書くときのインターフェースもそうなんだけれど、「機械に決められたとおりの配列に従わないと文章が書けない」というのが、電子媒体でものを書くときに感覚する、独特の不自由さにつながるんじゃないかと思う。

紙媒体であっても、たとえば検査の所見用紙だとか、あるいは昔ながらの紙カルテなんかは、時系列に沿って、だいたい似たような場所に、似たようなことが書かれるから、電子カルテと紙カルテと、見た目はそんなに変わらないんだけれど、「それができる」ことと、「それが強制される」こととの間には、人間側の感覚として、おおきな開きがあるような気がする。

それが紙媒体なら、読みにくくはなっても、自分流の適当な配列で情報を記載したところで、読んだら大体、意味は通じる。これがたとえば、電子カルテ上で、「その時の体温」を記載する欄に、「朝から咳が多くて胆がちょっと増えたような気がします」なんて、患者さんの声を記入したら、エラーメッセージが返ってくる。「声」を記入しようと思ったら、カーソルキーを動かして、「声」を書くために設けられた枠の中に文章を書く必要がある。blog のインターフェースなんかもまた、題名を書くときには題名の枠に移動しないといけない。些細なことなんだけれど、これがけっこう面倒くさい。

マークアップ記法は便利

PCは、「その文章が何を意味するのか」を人間側が明示してやれば、人間がやるべき配列を、機械で肩代わりしてくれる。

それはHTML やLaTeX もそうだし、自分がいつも日記を書くときに使っているMarkdown みたいな記法もそうだけれど、「これからこんなことを書きます」ということを、機械側にあらかじめ宣言しておくことで、人間側は体裁にとらわれることなく、キーボードをひたすら叩くだけで、ある程度整った体裁の版面が出来上がる。

電子カルテなんかもだから、今から書くことが何を意味しているのか、患者さんの声なのか、医師や看護師の思考なのか、脈拍や体温みたいな数値なのか、それとも処方箋を指定するための薬品名なのか、それを「タグ」として宣言することで、以降に記載した内容を、PCが解釈して、自動実行してくれるようなシステムを作ってくれると、便利な気がする。

人間側が、本当に好きなことを書き散らした上で、その人が何を考えているのか、その推定までをPC側にお願いできればもっと便利だけれど、そうなると今度は過誤が増えるし、実現するのは大変。半分人間、半分機械のやりかたは、HTML みたいな技術で十分に枯れているから、実現可能な範囲でいけると思う。

もちろんユーザーは、いくつかのタグを暗記する必要があるし、それがあるいは障壁になって、「使いにくい」という評判につながってしまうかもしれないけれど、ある種の「カルテ記法」みたいなものがその病院のスタンダードになったら、こうした形式の電子カルテは、もう人間側が配列に気を使わなくて済むような気がする。

最善のインターフェースは一つの窓

操作画面をどれだけ工夫したところで、「枠」がある以上、電子媒体の不便さは、そんなに変わらないのだと思う。

人間側が、PCの振る舞いをテキストで指定するやりかたでいいのなら、インターフェースは、「窓」一つ、キーボード一つで全ての用事が済んでしまう。それが電子カルテだったら、職員が使うのは「メモ帳」みたいな窓一つ、そこにタグとテキストの入り交じった文章を好きなペース、好きな順番で打ち込むと、閲覧するときには、それが一定のルールに従ったカルテ、グラフ表示された温度板と、患者さんの処方が記載されているような。

電子の文化を知らない上の人たちが、「これからは電子化だ」なんて、現場に「電子ありき」で押しつけてきたのが電子カルテで、そういう人たちを説得するには、紙カルテのアナロジーを踏襲せざるを得ないから、恐らくは「枠」の問題が、ずっとついて回るのだと思う。

今遊んでいるTwitter なんかは、ユーザーは一つの枠に思い思いのことを打ち込むだけしかできないけれど、これで通信もできるし、公開のおしゃべりもできる。面白い話だけ抜き書きして並べることもできるし、自分がその日つぶやいた内容を、時系列に従って一覧することだってできる。

紙媒体があれだけ普及したのは、あれが紙だからじゃなくて、単に便利だったからであって、紙の便利さを電子媒体で再現しようと思ったら、紙を再現する方向でなく、むしろ紙から自由になることを考えたほうが、結局正解なのだと思う。