高すぎる目標について

こんな症例検討会をやってほしい

珍しい疾患だとか、典型的でない経過をたどった症例は、しばしば「ふとしたことから一気に展望が開けたすごい症例」として、症例検討会で発表される。演者の気づきはすごいことだし、頑張って、ああなりたいなとも思うんだけれど、「僕も頑張ろう」じゃなくて、演者の気づき、「ふと」というものを、どうやったら霊感抜きで再現できるのか、同じ状況に行き当たったとき、何か特定の検査を追加したりだとか、あるいはある治療を試みて、診断的な治療を行ってしまったらどうなるのか、そういうものを、みんなで考えられたら面白いなと思う。

「ふと」の再現を一人でやると、状況ごとに提出すべき検査項目が、時間と共に、症例と共に、際限もなく増えていく。予算も時間も、採血される患者さんの血液だって有限だから、どこかで歯止めが必要なんだけれど、だったら今度は、どういう状況なら、特定の検査を提出して問題を回避できるのか、どういう留保条件がついたら、それでも検査を出したほうがいいのか、立場が異なるたくさんの人が集まる場でなら、いろんなアイデアが生まれるかもしれない。

一瞥しただけで全ての疾患を診断するような、神様みたいな名医を仮想して、症例検討会を終えて、「みんなで名医を目指して頑張ろう」で締めるのは、きれいなんだけれど、目標が遠すぎて、積めるものが少なすぎる。「誰も積めない」ことに、みんな満足してしまう。

ある疾患を検討したら、その症例発表を聞いた人たちは、「次はこうしてみよう」という意思表明を行なう、という縛りをかけると、参加する人の意識はずいぶん変わる。

議論はたぶん、「見逃しのリスクを受け入れる代わりにやりかたを変えない」立場と、「何か新しいやりかたを考える」立場とに分かれる。現状肯定派の人は、今度はリスクをどうやって患者さんに受け入れてもらうのか、納得のいく説明を問われるだろうし、革新派の人は、新しいやりかたを考えて、それがどの程度妥当なものなのか、患者さんが支払うコストに、それは見合ったものなのか、検討する必要が生まれる。いずれにしても、「頑張ろう」で議論を止められなくなるから、盛り上がる。

主催する人の負担はきっと大変だろうけれど、こういうの面白いと思う。

身体所見という万能解

患者さんを「見る」こと、身体所見というものを言語化するのは、すごく難しい。

診察と診断という流れを、たとえばフローチャートで表現したとして、フローチャートの頭部分に「身体所見」という部品を入れてしまうと、もうフローチャートを作る意味がなくなってしまう。

名人は、詳細な身体所見を採ることで、ほとんどの病気を見つけてしまう。身体所見というのは、極めればいくらでも極められる万能の道具になるから、フローチャートみたいな、判断分岐の能力が公平であることが前提の記法にこれを入れると、バランスが崩れてしまう。

今回自分が作った本には、身体所見の話題がほとんど入っていない。あえて入れなかった部分ももちろんあるんだけれど、これを診断のチャートに組み込んでしまうと、そもそもチャートを作る理由がなくなってしまうこと、もう一つ、 能力的に、自分には、診察というものを言語化できるだけの力がなかった、というのが正直なところだった。

診察は難しい。自分はやっぱり、この年になっても診察ができない。見つけるのが難しい病気の多くは、身体所見で診断できることになっているし、「名人」の書いた本には、検査で見つからなかった疾患が、身体所見を取り直したら診断できた、といったエピソードがたくさんあるんだけれど、できないものを、できるように書いたところで、それは書いた本人にも使えない本になってしまう。病歴と触診を書いてある教科書は、だからそれができる人が書くんだろうけれど、同じことをしようと思ったら、その人たちと同じものを見て、同じことを認識できないと行けない。

ところが名人と同じものを見ようと思ったら、自分自身も名人である必要があって、自分がたとえば、そうした名人と同じ患者さんを、同じ時間だけ診察させてもらったところで、その人が見ているものは、たぶん自分には認識できない。

高すぎる目標を設定すること

「トラブルのパターンは無数にあるから、とにかく誠意を持って事に当たるのが大切です」なんて断言すると、一見もっともらしい。ところがたとえば、「毒物の数は無数にあるから、主治医の武器になるのは熱意が全てです」なんて断言したら、その講師は間違いなく、「中毒学勉強してください」なんて、叩かれる。

一見万能で、高すぎて届かないところにある目標を掲げて、現場にそれを目指してもらうやりかたは、指示する側は簡単なんだけれど、やっぱりどこか違う。

達成不可能な目標を提示した上で、現場の「奮起」を期待してみせると、要件定義を行った側には、一切の瑕疵が発生しない。計画は失敗したり、妥協の余地無く精密すぎて、現場がそれを再現できなくなったりするんだけれど、無敵に近い何かを指示した側は、過失を問われない。そういうのは全部、現場のやる気が足りない、気合いが足りないせいだから。

要件定義を厳密に、実現可能なレベルで行うと、恐らくは現場はそれに答えやすくなるけれど、今度は要件を定義した側に、限られた性能のプロダクトを運用して、想定された成果を出してみせる責任が問われてしまう。責任を問われるのは誰だって嫌だから、こういうのはなかなか出てこない。

こういう文化は変わっていくものだと思うし、変えていけたらと思うんだけれど、やっぱりいろいろ難しい。