武徳について

自分たちの業界だと「やる気」や「正義感」みたいな言葉であったり、あるいは生産の現場だと「現場力」だとか仕事の丁寧さ、といった言葉になるんだろうけれど、世の中のあちこちには、「軍人の武徳」に連なる何かというものがどこにでもあって、今はこれが失われたことになっている。

武徳は「あると便利なもの」

武徳を備えた軍隊は、恐ろしく強力になる。命がけで相手に立ち向かっていくし、容易なことでは戦線を崩さない。国のため、目的のため、武徳を備えた軍人は、それこそ死ぬ気で働いてくれる。

軍隊は、軍人は、武徳を備えていることがもちろん望ましいし、普段から武徳を発揮できるような訓練を受けるのだけれど、クラウゼヴィッツは、「武徳はあると便利だが、将軍は、兵士に武徳を求めてはいけない」と説いていた。武徳を備えた軍隊が勝った事例はもちろんたくさんあるのだけれど、武徳を持たない軍隊が、グダグダしながらも、それでも勝った事例もたくさんあって、軍隊を指揮する人は、たとえ「武徳を持たない部隊」を任せられたとしても、そこから勝利を目指すやりかたを考えるべきなのだと。

武徳というのは、あくまでも「あると便利なもの」であって、それを必須であると考えたり、あるいは失敗したときの原因として「武徳の不足」を挙げるようになってしまうと、たぶんおかしなことになる。

また人が減る

うちの地域から、また何人かの先生がたがいなくなる。来年度から当直も増えて、救急当番日も増えた。当直のアルバイトをお願いすることも増えて、非常勤で働く医師がずいぶん増えた。

上の先生たちは、「あの施設はやる気がないから」とか、「あの人は燃え尽きちゃったから」なんて言う。「やる気」とか、あるいは燃え尽きる前の燃料に相当する何かこそは「武徳」であって、やっぱりこの世代の人たち、70歳がそろそろ見えるぐらいの人にとっては、医療というのは「武徳を備えた人」が運用するものが、当然になっていたんだろうと思う。

武徳というのは目に見えないから、それが前提になった組織は、オーバーワークが当たり前になるし、現場を離れた人は、武徳を失った「裏切り者」になる。あるのが前提の武徳は、それでも目に見えないから、去った人を叩いて、じゃあ残った人たちに武徳の炎が燃え上がるかといえば、もちろんそんなこともない。

武徳がどうして消えたのか、自分には分からないけれど、やっぱり年々厳しくなってきてる。

叩く世代と調べる世代

何かの道具がおかしな動作を始めたときに、「スイッチを入れたままでとりあえず叩いてみる」のが基本動作になっている世代と、「まずは電源を入れ直して再起動を試みる」世代とがあって、文化が断絶しているのだと思う。

恐らくは昭和40年代から50年代ぐらいの日本には、たしかに「武徳」に相当する何かがあって、働く人は、ある種宗教的な情熱で、それは裏を返せば思考停止を半ば自らに強制しながら働くことを当然としていて、組織をガバナンスする側の人たちもまた、武徳が前提の組織操縦を行って、今までとりあえず、何とか上手くここまで来れた。

今とりあえず、社会として、あるいは世代として、武徳というものが少ない、あるいは最初からそういうものを持たない人が増えて、組織の旗を振る上の世代の人たちは、「武徳を持たない軍隊」を指揮するやり方を習ってこなかったから、いろんなところで迷走が生じている。

判断を行ったり、あるいは「成功、失敗」の評価を行う人たちは、ある意味みんな「武徳世代」なものだから、失敗はとりあえず、「武徳の不足」が原因になる。やる気文脈で生きてきた人たちは、たぶん「ちゃんとやれば大丈夫」が信条になっていて、上手くいかないのは「ちゃんとやってないから」だと判断する。判断が下されて、現場に対する目線圧力はますます増えて、現場はいよいよ回らなくなってしまう。

もうすぐたぶん、「若い奴らはやる気が足りない。やる気で俺たちの生活を守れ」という上の世代と、「構造の問題に手をつけなかった不作為が、こういう状況を生んだ。老害さっさと退場しろ」という若い世代とで、争いが始まる。多数決だと若い側が必ず負けるんだけれど、その時はもしかしたら、「やる気に満ちた若い世代」なんて、どこを探したっていないんだろうと思う。