理解は押しつけから始まる

理路整然と、病気のことを患者さんにしゃべり倒しても、「理解」を得るのは難しい。どれだけ詳しくしゃべっても、患者さんからは「お任せします」なんて終結宣言がでて、伝わっていると思ったことは、全然伝わっていなかったりする。

「それは要するに、こういうことなんですね」なんて、患者さんの口から発せられる「要するに」をお互いに共有する、理解の方法論。

誰も病気のことなんて知りたくない

主治医は病気の専門家だから、患者さんの状況に応じて、今どんなことが推定されて、それに対してどういう手段を考えているのか、教科書的に正しいことを、系統だって語ることができる。実はこれが「できる」人すら少ないのが問題といえば問題なんだけれど、一応できることになっている。

ところがたぶん、患者さんだとか、ご家族の多くは、「系統だった」話を聞いて、それを理解であると認識しない。知りたいことの重要度は、個人によってまちまちで、たとえばそれが肺炎なら、咳を気にする人、発熱を気にする人、喀痰を気にする人、それぞれの患者さんごとに、知りたいことの序列はみんな異なる。

相手との文脈を共有しないままに情報を伝達しても、理解は生まれない。文脈というのは情報の並びかたであって、順番を違えた伝達は、たとえそれが医学的に正しくても、聞く側からはなんだか、外国の言葉を聞いているみたいに思えてしまう。

文脈を共有するためには理解が必要で、理解を行うためには文脈を共有しないといけない。この円環が、理解というものを困難にしている。

最初は押しつけでいいんだと思う

丁寧なやりかたを目指すのは間違いで、むしろ最初は、医療者側からの「押し付け」でいいのだと思う。

患者さんの問題が肺炎なら、「肺が悪い。酸素と点滴が必要。具合はいい悪いで言ったら少し悪い。死ぬこともある。医者としてやれる範囲で頑張るつもり」ぐらいのことをまずは「押しつけ」てから、相手の反応を待つようなやりかた。教科書的な知識を包み隠さず伝達する、最初から「相互理解」みたいなやりかたを目指すと、たぶん望ましい結果には結びつかない。

外国語みたいな長口舌を聞かされた人は、理解ができないから、黙ってしまう。言葉を「押しつけ」られると、たいていの人が反発する。押しつけられて、反発して、試行錯誤を行って、行った結果として、「質問」が生まれる。遠回りではあるんだけれど、たぶん理解というものは、きれいな伝達を工夫しても、望ましい理解は、むしろ遠のくような気がする。

理解というものを考えるときには、たぶん「質問が出やすい状況設定」を考える必要がある。それは押しつけやすい「要するに」の準備であって、疾患ごと、重症度ごとに、「要するにこういう状況です」という一言を普段から準備しておくことが、より速い「理解」につながる。コミュニケーションにおいて、「理解」という工程は、だから事前に準備をしておかないといけないもので、患者さんと向き合ってから医師にできることは、案外少ないのだと思う。

衝突が納得を導く

理解というものは最終的に、「医療者側から押しつけられた思考の型枠を、自分の言葉で満たす」作業として完成する。

理解のその先、「納得」というものは、今度は「遭遇した体験」を通じて、患者さん自身が内的に生成するものなんだと思う。

演劇を見る。静かな空気。しゃべらず歩く人。壁に向かって立ち止まる人。壁に絵が掛けられている情景を見せられることで、観客は「美術館とはこういうものであったか」という気づきを得る。これが「納得」であって、ここで主役に「あぁ美術館はいいなあ」と語らせたところで、それは単なる言葉の押しつけであって、納得には遠い。納得を得るためには、それが演劇であれば「遠いたとえ」から「近いたとえ」へ、観客のリアルが剥離しないよう、計算された「体験の押しつけ」を重ねることで、観客を穏やかに導いていかないといけない。

統一協会の「セミナー」中盤、「文鮮明は朝鮮の人なのに、日本人を肩に担いで命を助けた。何故か?」なんて問われるのもまた、恐らくは計算された体験の押しつけなんだと思う。こういう問いを繰り返されることで、怖いもの見たさで入門した人の口から、「師は慈愛の人だから」みたいな「納得」が導かれることで納得が達成される。

病院における「体験」というものは、症状であったり、患者さんの振るまいに相当する。「症状」は病院のもの、医療従事者のものであって、一方で、「病名」は患者さんのもの、患者さんの口から、「納得」を得た証として出てくるのを待たないといけない。

「○○さんは痴呆です。診断基準を満たしています」なんて言い回しでは、理解も納得も得られない。

自宅だと食事をとらない。今までと行動が違う。という体験がまずあって、病院に来る。医師からは「病的な状態である。血液検査や頭部CTでは大きな異常がない。調べるけれど分からないかもしれない」なんて言葉の押しつけがまずあって、患者さん側からの質問があって、理解が行われる。

入院した患者さんのご家族が、息子さんの顔が分からなくなる、食事をむせる、食べたことを忘れる、夜中に暴れて点滴を抜く、といった「体験」を経ることで、恐らくはご家族は、「入院すれば治る」なんていう病気の理解と、自らの体験とが衝突する。衝突を体験することで、初めてご家族は、「病気というものはこういうものであったのか」という、医師の目線で自らの体験を考え直す機会を得る。納得には「衝突」が必要なのだと思う。

説得と何が違うのか

詐欺師は相手の強欲を利用する。ソーシャルエンジニアは誰かを助けたいという気持ちを利用する。突き詰めれば自尊心というものの扱いかたを心得た人が、人を動かす。

理解と納得を得るために必要な技術と、納得モデルそれ自体の書き換えを試みる「説得」の技術とは、体系からして異なっている気がする。

敏腕セールスマンだとか、詐欺師やソーシャルエンジニアの技術と、劇作家の人だとか、自己啓発セミナーの技術とは、互換性がないんだと思う。

納得は認識の変容を迫る。下準備は大変で、時間もかかるけれど、効果は深く長く続く。説得の技法は、「お金がもらえるその時まで持てばいい」という、割り切りがあるような印象。効果が一時的であることを受け入れるその代わり、無理な振る舞いを強制することもできるし、効果の発現も速い。

理解や納得の技法は、相手の動作を歓迎する。試行錯誤を歓迎して、それを促すような状況を作り出す。扇動者は逆に、相手の動作をいかに止めるか、相手の思考をいかに停止させるかに心を砕く。