「もてなし」の力

人を「もてなす」というのは、相手の動線を最小化するように、自らの振る舞いを、相手に見せることなんだと思う。

同じ仕事をこなすのに、お互いの仕事量が最小になることを目指してしまうと、それは相手から見ると「仕事の強制」であって、もてなしとは違う。たとえ相手の動線を最小化することに成功しても、それが相手から見えないと、単なる「便利」になってしまって、もてなされたという感覚が発生しない。

病院におけるもてなし

病院には、相手を「もてなす」構造というか、仕組みがたくさんあって、そういうものを上手に使うと、患者さんの印象を変えることができる。

  • ご家族に病状説明を行うときには、ご家族は最初、患者さんのベッドサイドで待っていることになる。病状説明を行うのは別の場所だから、距離があって、わずかな距離だけれど、この距離を、相手を「呼び出す」ことに使うのと、主治医が歩いて相手を「迎えに行く」こととで、印象は全く変わってくる
  • 外来ブースはカーテンで仕切られていて、患者さんは、カーテンの外側、受付近くの待合室で待つ。外来の対応がうまくいかなかったときに、受付で待つ患者さんの居場所まで、カーテンを開けて、主治医が歩いて、ほんの一言二言、病気に関する注意みたいなものを述べるだけで、患者さんの印象が好転する
  • 検査のときなど、患者さんに靴を脱いでもらう機会は多い。靴は患者さんのもので、たいていの人はその場に脱ぐんだけれど、靴をベッドの下にしまわないと、機械をそこまで持っていけない。このときに、「靴を主治医の足でベッド下に押し込む」のと、「主治医が腰をかがめて靴を揃える」のとで、やっぱり印象が全然違ってくる

このへんにきちんと気を配るよう、研修医の頃にはずいぶん仕込まれたんだけれど、今はどうなっているのか分からない。こういうことをやっている、少なくとも、病院のこうした不自由さを、交渉の道具として自覚的に使っている人は、そんなに多くないような気はする。

「もてなし」というのは、言ってしまえば下らないごますりで、医療の「本質」みたいなものからは一番遠いものではあるんだけれど、下らないことをきっちりやれない人は、「本質」を、その人なりにどれだけきっちりやったとしても、下らないことに、いつか足下をすくわれる。

もてなしの戦略性

「単なる便利」と「もてなし」とは、同じ動作の節約であっても、受ける印象がずいぶん違う。

誰かをもてなす、あるいは相手に「もてなされた」という感覚を生むためには、まずは「顧客に対して不自由が一方的に付加される」という状況を作ってから、顧客を出迎える側が、自ら動くことで不自由をとりはらうという儀式を挟まないといけない。

ご家族を呼び出す話なら、たとえばどこか場所を決めておいて、最初からそこに全員が集合すれば、医師がご家族を迎えに行くまでもなく、みんながのその場所で待っていられる。これは便利であるその代わり、「もてなし」という感覚からは遠くなる。

外来ブースはカーテンで仕切られているけれど、カルテを完全電子化して、外来が終わったその瞬間に請求書が出来上がるような仕組みができたらたしかに便利なんだけれど、これをやってしまうと「待つ機会」が一つ減るから、主治医はもう、外来ブースでの失敗を取り返せない。

恐らくは「もてなし」というものをやりやすくするための状況とか構造、空間の使いかただとか、相手に「もてなしにつながる不自由」を付加するやりかたというものが、主に茶道方面のノウハウとして、蓄積されているような気がする。もてなしというものは気持ちの問題なんかじゃなくて、技術であって、あえて何かを作り込まないと、生まれないものなんだと思う。

昔の「茶室」というものも、あるいはあれは、相手から「もてなしという手段」を得るための、一種の要塞というか、罠みたいなものとして読み解くと、面白いかもしれない。相手を歩かせて、寒い思いをさせて、そういう構造を作った本人がお客さんを出迎えるのだから、状況に応じた相手の心境だとか、その時味わっている不自由さが、容易に想像できてしまう。

交渉や謝罪を行うときに、「その時の相手の心境」が理解できていると、いろんな物事が簡単になるんだけれど、空間設計を上手に行ったり、あるいは自分が今いる病院という場所が、そこに来る人に押しつける不自由さみたいなものを普段から理解しておくと、顧客を「もてなす」ときに、それが生きてくるんだと思う。