交渉における補給の問題

恐らくは自尊心というものが、交渉における通貨になる。

「あの人はプライドが高い」という表現に出てくる「高さ」という考えかたは、お金で言うと「気前の良さ」や「お金の使いかた」みたいなものであって、高い低いだけでない、本当はもっと複雑なものなんだろうと思う。

補給というもの

食べ物だとかお金の問題、「補給」というものは大切なのに、戦争が始まると、たいてい真っ先に無視される。無視されて地味なのに、補給を無視した軍隊は、必ず負ける。

医療の技術や診断能力、自分たち医師の「熱意」だとか、「能力」に相当するものは、これは戦争で言ったら「武器」する。見た目が派手で、能力はみんな磨きたがるのに、補給はしばしば無視される。

病棟で「補給」に相当するものは、たとえばその日勤務している看護師さんたちの人数だとか、勤務シフト、人間関係みたいなものなんだと思う。こういうものは本来、「医師の関与するところではない」し、それを理由に仕事が滞ると「病棟がたるんでいる」ことにされてしまうんだけれど、看護師さんが動けない病棟では、患者さんは治らない。

恐らくは患者さんの状態にきっちり合わせた、薬の一滴にまで気を使う処方を行う医師は、もっとずぼらな、10人の患者さんがいたら、10人に同じような処方をする医師よりも、患者さんの予後を悪くする。

病棟看護師さんの能力が無限に高ければ、もちろん結果は逆転するけれど、複雑な指示はミスが混じるし、オーダーは遅延する。必要なときに必要な薬が入らなければ、結果として、病気は良くならない。医師のオーダーに従えないのは、もちろん「病棟の怠慢」だけれど、本来はたぶん、オーダーを出す側が、こうした要素に気を配る義務があるんだと思う。それができない「名将軍」は、結局は「無能な病棟」を恨みながら、敗走して、別の施設で敗北を繰り返す。

交渉における兵站要素

議論や交渉において、補給物資に相当するものは、お互いの自尊心なのだと思う。

自尊心は交渉の通貨であって、頭を下げるほどに、妥協するほどに減っていく。通貨は節約する必要があるけれど、支払いを拒んだら、交渉は成立しない。

自尊心通貨が空になった人どうしが交渉を行うと、削れたプライドを、目の前の相手から徴発しないといけない。これは要するに、相手に対して小さな勝利を奪いに行くことに他ならないから、最終的に、嫌みの応酬みたいになって、お互い飢えているから止められなくて、交渉は自壊する。

いわゆる交渉ごとの本には、交渉人の自尊心について書かれたものは少ない気がする。交渉する側の自尊心というものは、むしろ「鍛錬」だとか「自己研鑽」で克服すべきものみたいなイメージ。「勝つ交渉」の達人である橋下弁護士の本にも、このあたりの言及は少なくて、あるいはあの人なんかは、攻めの上手だけれど、補給を重視しないから、それが時々欠点として露わになっているように思えたりする。

「相手に敬意を払おう」とか、「真摯な態度で交渉に臨もう」とか、それをやるためには、まず自分自身が「お腹いっぱい」でないと無理だと思う。空腹で、財布が空で、相手を思いやることなんてできるわけがないし、その状況で交渉を行っても上手くいかない。

上手な通貨の使いかた

「上手な自尊心の支払いかた」を知っている人は、余裕を持って交渉に臨める。それはたとえば、交渉の目的をはっきりさせておいて、頭を下げることを動作として予期しておくことだとか、「負けること」それ自体にもべつの勝利要素を見いだせるよな、負けでなく、とりうる選択枝の一つであると見なせるような自己欺瞞論理を作っておくことで、こういう「下準備」を行っておくと、一つの判断ごとに支払う自意識通貨を節約することができる。

その人が支払える自尊心通貨の総量が多ければ、やはり心に余裕が生まれる。「自分を肯定してくれる場所」をどこかに持っていると、一見それが交渉に関係なくても、貴重な「補給基地」になって、それがあるだけで、交渉のとき、選択枝が一つぐらい余分に思いつく。

相手を100% 倒しに行ける手段を持っておく、考えておくことは、交渉を楽にする。「いつでも倒せる」相手には、人はたぶん優しくなれる。「とりあえずぶっ飛ばす。話はそれから聞いてやるの」という考えかたは、たぶんそんなに間違っていない。正しいことを、誠実にやろうとする人は、だからこそ、あらゆる正しくないやりかた、あらゆる誠実でないやりかたに精通しておかないといけないし、それができて初めて、その人は一番効率のいいやりかたとして、正しくて誠実な方法を提案できる。

交渉の目的を、「問題の解決」に置くならば、相手の自尊心通貨を枯らす、心を折る、潰しに行くことは、交渉の成功を意味しないどころか、むしろ問題の解決を遠ざける。「食べながら戦う」兵士がいないように、相手の懐具合にも気を配りながら、交渉は、適切なタイミングで休止を入れないといけない。