責任の所在について

たとえば「気迫さえあれば、竹槍でB29ぐらい余裕で撃墜できる」なんて怒鳴る軍人がいたとして、その人に「具体的に気迫を見せて下さい」と言ったら、たぶん殴られる。実際にB29が来たとして、竹槍構えて、撃墜できなかったら、やっぱり「気迫が足りない」と怒鳴られる。気迫はどこにも見えないのに、それは「ある」ものであって、それを根拠、現場は怒鳴られたり、殴られたりする。

自分たちの業界には、「ない」ことになっているんだけれど明確に「ある」、責任というものがあって、毎年何人か、これに潰されて仕事を辞める。

責任の重さ

たとえば80歳の高齢者が敗血症になってショック状態で、今すぐ処置しないと死んでしまうぐらいに具合が悪くても、診る側は案外楽で、医学的なベストを尽くすことに集中できる。「責任」なんてものを意識する人は、たぶん少ない。

ところが20歳ぐらいの若い人が、発熱と咳が2週間続いて、「息が少し苦しいんです」なんてつぶやいた日には、みんな震え上がる。それが単なる肺炎であったとして、日本中どこの病院でも、たぶん肺炎を治療することはできるんだけれど、誰が診療しても、患者さんは一定の確率で悪くなるし、確率をゼロにはできない。

こういう人が本当に急変したとして、ご家族も本人も、「たかが肺炎」で急変するなんて思いもしなかっただろうから、驚きは怒りに変わる。その怒りは、誰かが引き受けないといけない。医療の業界で、今はたぶん、たいていの人がこんな想像をするから、若い患者さんを「ちょっと」治すのは、恐ろしい。

避けようのない事態があって、その時に重たい「責任」が発生することは、きっと誰もが分かっているはずなのに、こういうのは「医学的には避けようがない」ことで、「きちんと説明すれば、患者さんは分かってくれる」ことになっていて、世の中にはだから、「責任」なんてものは、そもそも存在しないことになっている。

「ない」ものを恐れるのは馬鹿で、みんな馬鹿だと言われるのは嫌だから、責任の話は語られない。語られないけれど、それはやっぱり「ある」ものだから、こういう患者さんが来たときには、まずは他の病院を探す。患者さんと、ついでに「責任」という得体の知れないものと、一緒に引き取ってほしいから。

昔はそれが転院だった

「患者を引き受けて下さい」、という転院依頼が、自分が研修医だった病院では、ずいぶん多かった。「医学的には容易」な疾患なのに、土曜日の午後だとか、うちの施設だって手薄になってしまう、明らかに「今じゃないだろう」なんて転院依頼。病院の方針が「絶対受ける」だったから、それでも受けざるを得なかったんだけれど、転院を依頼する側にしてみれば、送りたいのは患者さんじゃなくて、「責任」だったんだろうと思う。

今はもう、「転院」というやりかた自体が減った。大学みたいな大きな施設から人がいなくなって、どこももう手一杯で、引き受けてくれるところなんてない。「受けたら転院」の時代から、ゼロ年代のトレンドは「受けたら負け」になって、たしかにそのとおりになって、現場からはますます人が減った。

避けようがない、語ることを許されない、「責任」という怪物から、どうにかして自分の身を守ろう、守ろうとして、みんな右往左往している。そもそも患者さんを診ないとか、入院患者さんは診ないとか、専門を「これ」と決めて、それ以外は絶対診ないとか。「何でも診ます」なんて宣言する奴は、もはや同情もしてもらえない。

セカンドオピニオンの政治的な使いかた

患者さんを引き受けてくれる手の数は、昔に比べてずいぶん少なくなった。今はもう、一般内科も絶滅危惧リストの上位に載って、たぶんもうすぐいなくなる。ここで何とかやっていこうと思ったなら、見えないけれど「ある」、責任というものを、何とか分割、分配して、人の手に負える大きさにする術を探さないといけない。

大学の先生と話していて、これからはたぶん、「セカンドオピニオン」がそんな役割を担うようになるよね、なんて結論になった。

大学は、昔はそういう「責任もろとも患者さんをよろしく」みたいな転院を引き受けていて、今はもう研修医もいなくなって、そういうのが受けられなくなった。受けられなくなって、今度は外来に、セカンドオピニオンが増えているんだという。

患者さん本人が来ないんだけれど、ご家族が来て、紹介状を持って、「できれば転院させて下さい」なんて迫られる。ベッドもないから、外来担当医は断ることしかできないんだけれど、そこで「断った姿」がご家族に観測されるから、これがプレッシャーになるんだという。「そうか!」とそれ聞いてて思った。これからは「これだ」って。

患者さん本人を動かさなくても、「断った誰かの顔」を、患者さん周囲の誰かが観測したその時点で、責任の降る対象は分割されて、一部はそっちに移行する。責任が分割されることで、患者さん本人を診る側は、それだけ責任の負担が軽くなる。相手は大変だろうけれど、責任なんてそもそも「ない」ことになっているから、セカンドオピニオンは、断れない。

えらい人にもっと政治のことを考えてほしい

責任というのは「ご家族や本人が予期していた結果が得られなかった際の怒りの持っていきどころ」であって、結果が確率論的なものでしか予期できない以上、一定の確率で、責任は、誰かのところに降ってくる。それはますます大きく重くなって、もはや1人で背負うのは無理だから、みんなそこから逃げ出している。

「全部よろしく」の転院依頼はもう実質無理で、今は「最初から受けない」が正解になりつつあって、それでも受ける病院は限界。そもそも受けるのが不正解認定だから、もう同情もしてもらえない。責任の扱いかたに、「分割」というやりかたが導入できれば、状況はずいぶん変わる。患者さん受けて、受けてくれない専門家に、すかさず責任の杭を撃ち込んでしまえば、みんなもう逃げられない。そこでようやく、主治医は医師として、医学的に自由に振る舞えるようになる。

政治のお話は下らない。 下らないからこそ、こういう下らないものの取り扱いかたをきちんと考えておかないと、病院という得体の知れないこの場所で、「医学的に正しい振る舞い」なんてできっこないと思う。