手段としての謝罪

「医療コミュニケーション」の考えかたみたいなのをまとめる機会が今後あったとして、やっぱり「謝罪」というものの扱いかたが、特徴というか、鍵になるような気がする。

元検事は謝らなかった

えん罪事件の元検事が、「謝らない」ことで、ずいぶん叩かれてた。

元検事の「謝らない」というやりかたは、たとえば検察側に何かものすごい深謀遠慮があって、今あえて謝罪を拒否しているということでは無いような気がする。あれはむしろ、検察の側に「謝罪を中間手続きとして折り込んだ交渉戦略」が用意されていなかったものだから、謝罪を決断するタイミングを逃してしまったのだと思う。あの場所で、えん罪でをかぶせられた人の不快感に対して、一言「ごめんなさい」と言ったところで、それが一人歩きする可能性は低いだろうし、たとえば相手側の弁護士がそこで言質を取りに来ても、それを切り返すことは、そんなに難しくない。

謝罪という行為を、そこで「終わりである」と考えてしまうのが、間違いなんだと思う。ある種の職業、状況においては、「ごめん」は単なる道具であって、交渉のゴールにはならないし、「謝ったらそれで終わり」なら、それは交渉戦略が根本的に間違っている。

全ての情報を集積、評価した上で、最後に「万全の謝罪」を目指すのは悪手であって、問題が大きくなることが読めたなら、そうなるはるか手前の段階で、「小さな謝罪」を行っておけば、交渉に必要な資源の総量を抑えることができる。手段として謝罪を運用するときには、緻密さよりも、むしろ決断の早さが大切で、それを適切に用いるためには、あらかじめ「ごめん」を折り込んだ戦略を作っておかないといけない。

じゃあどうするのか

戦争学でいうところの「攻撃」と、コミュニケーション工学(造語)でいうところの「謝罪」とは、向きが違うだけで、全く同じ考えかたで、同じタイミングで切られるカードなのだと思う。戦争においては、「攻撃」や、「相手の破壊」は目標ではなく、「相手をコントロール下に置く」ための、単なる手段に過ぎない。攻撃の達人である「戦局眼」を持った名将軍は、謝罪の達人にもなれる。

自分たちの業界に、謝罪を折り込んだ交渉戦略があるかといえば、たぶん存在しない。少なくとも自分は習ったことがない。「医師が謝ったほうが結果が良かった」なんていう、ハーバード大学のレポートが出てきて話題になったけれど、あれは医師の「人間力」みたいなのに逃げていて、技術としての謝罪を論じていないように思える。

医療の現場で最近言われる、「謝りましょう」なんてかけ声は、だから個人的には、ちょっと空疎に聞こえる。謝って、じゃあどうするのか、「謝りましょう」なんて言う人たちも、それを教えてくれるわけじゃないから。

じゃあ「謝罪を折り込んだ戦略」を作って見せろ、なんて話になると、難しい。たとえば「攻撃のタイミング」は、将軍の能力みたいなものを決定する大事な要素で、それをきちんと説明して、再現できた人がいないからこそ、現場には「戦局眼」なんて、神秘的で説明できない言葉だけが伝わる。謝罪のタイミングというものも、それに近いのだと思う。

試案

「医療の謝罪」という話題に限定すると、患者さんから、あるいはご家族から「謝れ」なんて言われたときには、それがどれだけ理不尽な話であっても、すでに謝罪のタイミングとしては遅すぎる。医学的な正当性が、たとえ全面的に医療者側にあったとしても、相手から「謝れ」と言われるもっと早い段階で、「説明が下手でごめんなさい」と一言入れておけば、そもそも「謝れ」と言われる状況は、発生しなかった。

じゃあ最初から「ごめんなさい」したらどうなるかと言えば、患者さんがいなくなってしまう。診察してもいないのに、治療を始めてもいないのに、いきなり謝るような医師には、たぶん誰も診てもらいたくないだろうし。謝罪のタイミングはだから、これだと速すぎる。

じゃあたとえば最初の抗生剤が入った直後はどうか。ここで謝ったら、患者さんがびっくりする。

3日目ぐらいではどうか。上手くいっていれば、熱が下がるし、上手くいっていなければ、まだ熱が出ているぐらいのタイミング。上手くいっていれば謝る必要はないし、上手くいっていないこの状況で謝られると、患者さんはすごく怖がると思う。

たとえば熱が下がらない7日目、患者さんにそろそろ「この医者大丈夫か?」なんて疑念がわき起こる頃に「ごめんなさい」すると、これはまたトラブルになりそうな気がする。そこには「すでに手遅れ」なんてメッセージが入ってしまう。

タイミングはだから、3日目から7日目のどこかぐらいにあって、もう一つ、「部分的に謝れる状況」を作らないと、たぶん正解には至れない。

部分を謝罪して感情を切り離す

謝罪というのは事実から感情を切り離すための刃物なんだと思う。

日本刀で手術はできない。外科医は小さな刃物を何十回も動かして、状況ごとにやりかたを変えながら、少しずつ手術を進める。交渉も恐らく同じで、「小さな刃物」を、状況ごとに取り換えながら、切るタイミングが遅すぎても、あるいは大きく切りすぎても、状況は悪くなる。その代わり、状況ごとの「正しいやりかた」というものは記述可能で、手術の手順書みたいに、恐らくそれは、訓練を受けた者同士で共有できる。

「部分の謝罪」という技術があるのだと思う。「全面的にごめんなさい」を行ってしまうと、患者さん側の選択枝として、病院から出て行く以外の道が無くなってしまう。瀬戸際外交みたいにこれをやって、相手側の全面降伏を引きずり出すやりかたもあるんだけれど、あとが大変だからあんまりやらないほうがいいと思う。あくまでも「治癒」を目指すなら、相手の「感情にごめんなさい」、あるいは「疑念にごめんなさい」と、医療者側の「技術的にごめんなさい」とを、分けたほうがいい。

患者さん側に疑念がない状況での「ごめんなさい」は、唐突に過ぎる。疑念が大きくなってからだと、たぶん主治医の側にも後ろめたさみたいなのが出てくるから、今度は意志決定が不安定になって、失敗しやすくなる。状況はしばしば先送りされて、「今」が必要なのに、「2日後にムンテラ」なんて宣言を生んで、患者さんが急変して、「全面的にごめんなさい」に追い込まれる。患者さん側の心に疑念がわき起こったまさにその瞬間、「感情に対してごめんなさい」を宣言して、その上で医学的には教科書どおりの、治療が行われていることを請けあうと、疑念が怒りに発展するのを阻止できて、恐らくは謝罪という行為を通じて、主治医が患者さんのことを気にかけているという、少し前向きなメッセージを伝えることができる。

相手の心は絶対に読めない。読めないから、患者さんの疑念というものは、医療者側でコントロールしないといけない。

具体的に何をすればいいかと言えば「実況中継」であって、今の患者さんが抱えている問題に対して、医師はどんな鑑別診断を考え、それに対してどんな検査プランを作り、プランが正しければ何を行い、プランが予定どおりに行っていないことを医師はどういう徴候から読み取り、上手くいっていないなら次に何をするのか、そういうことをあらかじめ想定して、患者さんと話をする都度、それを説明しないといけない。

アナウンスを行うこと、「予期」だとか「失敗したその先」を、その中に折り込むことで、予期したとおりに物事が動いていないとき、「あなたの疑念にごめんなさい」を、適切なタイミングで切り出すことができる。

あざといんだけれど、この「あざとさ」を実現するためには、医療者側は検査プラン、治療プランをきちんと作る必要があって、患者さんの側にそれを分かりやすく伝えられるよう、言葉を工夫して、常に改良しておかないといけない。プランがオープンになるわけだから、それが常に最新であるように、勉強を続けて、自分自身をアップデートしないといけない。

動機はすごく後ろ向きだけれど、こういう努力それ自体は、恐らくは患者さん側にも、医療者の側にも、メリットが多いと思う。