誠意は大切

処世術としての「誠実な会話」について。

何となく話そびれて、患者さんだとか、あるいはご家族から「話を聞かせて下さい」なんていわれたときの話しあいは、注意しないといけない。 これといった目的のない話しあいは、しばしば迷走して、収拾がつかなくなってしまうことがある。

最初に目的を宣言する

話しあいの前に、目標を宣言するのは大事なんだと思う。「今日は検査の報告だけさせていただきます」とか。「状態もだいぶ安定してきたので、退院の時期を相談したくて、今日来ていただきました」とか。

最初に医療者側から宣言をしておくと、話がぶれにくい。逆に「宣言」なしで、何となく話が進んで、ご家族の側から「宣言」を切り出されると、流れはご家族のものになる。流れを変えたり、あるいは「今日はこのへんで」なんて話を打ち切ると、それは「流れが着られた」という心証になって、どう言いつくろっても、いい結果を生まない。

「宣言」は単なる言葉であって、達成しなくてはならないゴールとは違う。達成を焦ると、話しあいはやっぱりドツボにはまる。

たとえばそれが退院の話しあいであるならば、「退院の相談」という宣言を行うことが当面の目標なのであって、ご家族と、医療者とが一堂に会したその場で、「退院」という単語が出されたその時点で、目標はもう達成されている。一度の面談で、退院を決定して、日程まで決めようとするのはたいてい無理で、それをゴールにしてしまうと失敗する。

目標なしの「いわゆるムンテラ」、世間話と最近の状況、あわよくば退院の話、みたいなやりかたをすると、議論が迷走する。おしゃべりが得意でない人がこれをやると、下手すると患者さんの御用聞きに終始してしまうし、下手に「功」を焦って、ご家族が予期しないタイミングで退院の話を切り出したりすると、唐突に過ぎるきらいがある。

会話の流れを操作するのが上手な人は、「目標」なんて堅いこと言わないで、このあたりを上手にこなせるのだろうけれど、準備といってもせいぜい、今日話し合うことを、心の中で考えておくだけのことなんだから、準備で済むことなら、目標の準備をしてから、交渉の席に臨んだほうがいいのだと思う。

こちらからご家族を呼び出しておいて、「で、今日の会議は何話すんでしたっけ?」みたいな状況になっている同業者は、けっこう多い印象を持っている。理解を共有できないと交渉は始まらないし、お互いに納得のいく結論に到達できなければ、交渉の意味はない。交渉をはじめるためには目標が必要であって、交渉に臨む人たちは、しばしば目標なんて持っていない。だからこそそれは、自分で意識して用意しておかないといけない。

相手の「財布」を思いやる

ここ1年ぐらい、交渉を行うときには、常に上手な撤退というか、水入りのタイミングを考えるようにしている。

たとえば症状が漠然としすぎていて、一体どんなことをしてほしくて病院に来たのか、ちょっと話を聞いたぐらいではよく分からないような患者さんというのが、外来にはしばしばやってくる。こういう患者さんに対して、「時系列に沿って、簡潔に、症状だけをまとめて下さい。あなたの判断は要りませんから」なんて応対をしたら、絶対怒られる。

人にはそれぞれ、ちょうど「貯金」みたいな、支払い可能な説明資源というものがある。漠然とした訴えかたしかできない人というのは、症状が本当に漠然としているからか、あるいは説明という行為自体にあまり慣れていないからか、いずれにしても、外来に来たその時点で、支払い可能な説明資源が、すでに底をつきかけている。こんな状況で、初対面の医師から「簡潔に」なんて言われると、貯金は一瞬で底をついて、あとは怒ることしかできない。

こういうときはずるいけれど、とりあえず病院に来てくれたことを歓迎する言葉だけ出して、「あとからまた改めて話を聞かせて下さい」とか、「とりあえず、危ない病気から検査しましょう」とかいって、先に検査に回ってもらうようにしている。検査を受けると、「漠然」が、「病気」という軸で整理されて、その人の説明資源が増える。

1時間ぐらいで結果がそろうとして、検査データと、貯蓄の増えた説明資源を使って、患者さんから改めて話を聞くと、異常データに沿った症状の説明をもらえて、話が簡単になる。

明らかに退院を嫌がっているようなご家族に、患者さんの退院を切り出すときなんかも、個人的には、「水入り」前提で話をすることが多い。

まずは「退院という言葉を議場に上げる」ところまでがその日の目標で、そこではそれ以上押さないで、その代わり、ご家族の「家の都合が」とか、「日中の人手が」とか、そういう話も議場に上げないように流れに注意して、途中で水を入れて、「とりあえず考えてみて下さい」なんて、その日の話を終了する。

恐らくは「嫌な話」であろう、高齢の患者さんを自宅に引き取る話だとか、そういう場に呼ばれるだけで、たぶんご家族の説明資源、交渉資源みたいなものは、少なくなっている。そこで話を一気呵成に押し込もうとすると、会話をしている最中に、ご家族の「財布」は空っぽになってしまう。交渉資源が赤字になる前に話を止めて、ご家族が再び、交渉資源を貯める時間を設けて、その直前に退院というバイアスをかけておくと、退院の方向に、交渉資源が蓄積される。

ここで話を押し込みすぎて、「次に病院に来るときまでに、退院日を決定して下さい」とかやってしまうと、今度は「退院できない理由」が蓄積されてしまう。

誠意の問題を不実に語る

こういうのは、裏側から見ると、あたかも患者さんを「騙す」ようなやりかたなんだけれど、外面は、穏やかで、相手の状況に配慮した話しかたに見える。

どうやったら上手に負けられるだろうとか、よく考える。

交渉術というと、交渉者が必殺技みたいな何かを繰り出して、文句をつけてきた相手を叩きのめすための方法論みたいなイメージがあるんだけれど、交渉の名人というのはたぶん、むしろ「情けない」人に見えることを好むんじゃないかと思う。謝って済むのなら、さっさと謝って、ぺこぺこ頭下げて、万事を丸く収めるような。一見すると、それは「名人の負け」に見えて、相手も満足して帰るんだけれど、名人以外は誰も損をしていないような。

1分間交渉して謝られた人は、1分謝られたら満足する。1日交渉して「勝った」人は、たぶん1日分謝られないと、満足しない。謝るというやりかたは、だから状況を見切ったら、一刻も早く実行することが大切で、タイミングが早ければ早いほど、謝る側のダメージが減る。

ところが謝るという行為は、どこかで「負けを認める」イメージがあって、交渉者のプライドが削れる。みんな自分が削れることは嫌だから、しばしば判断が遅れて、謝罪のオッズがどんどんつり上がってしまう。

謝罪は削れる。コミュニケーションを道徳文脈で学ぶと、たぶん余計に削れる。「誠意を持って謝りましょう」とか習うと、ダメージは3倍ぐらいになる。

謝罪という行為を、単なる交渉のプロセスとして、条件分岐を設定して、「こうなったら頭を下げてごめんなさいと言う」みたいな機械的な動作として、謝罪をあらかじめ組み込んでおくと、それはマニュアルどおりの、単なる腰の運動だから、プライドは減らない。「謝罪の習慣」を、現場に本当に根付かせようと思ったら、こういうのが大事なんだと思う。

「誠意あるやりとり」というものは、強調してはいけないのだと思う。誠意は大切なのかもしれないけれど、それを現場に広めようと思ったら、誠意というものを、むしろ「軽い」ものとして扱わないといけない。誠意の価値が高まれば高まるほどに、たぶん「誠意ある言葉」は「安売りできない」ものになって、おかしなことになる。

誠意というものをきちんと定義して、再現性のある技術として、知っておくと便利な処世術としてそれを広めることができれば、現場には「誠意ある言葉」が気軽に交わされるようになる。

「それは本当の誠意じゃない」という人がいるのなら、その人はたぶん、誠意でご飯を食べたいだけで、誠意が広まってほしくはないんだろうと思う。