面白い物を生み出す仕組み

出版社ごとの、文化というか、時間の流れかたについて。

原稿は忘れた頃にやってくる

ずいぶん昔、所属医局で教科書を書くなんて話が持ち上がったときには、ずいぶんゆっくりとした流れだった。

企画書が回ってきて、分野ごとに担当執筆者が決められて、締め切りはたしか、3ヶ月ぐらい後だった。時間の流れかたは、締め切りが遠いとずいぶん速くて、「そのうち書こう」なんて思った原稿はそのままになって、最後の数週間、大いに慌てた。実際に「締め切り」が来て、原稿はもちろんそろわないから、それからまた、ずいぶん時間がたった。

原稿を書いたことすら忘れた頃、印刷物になった原稿が、手元に帰ってきた。みんなでそれに赤で訂正を入れて、たぶん訂正したのはそれっきりで、原稿は本になった。

今でも時々、上の先生がたが本を書く。やっぱり「忘れた」とか「忘れた頃に」なんて言葉は多くて、出版のペースは、そんなに変わっていないような気がする。

1ヶ月という時間軸

最初に相談した出版社の通信サイクルは、「1ヶ月」だった。

「出版したいんです」なんて、出版社の「お客様問い合わせ窓口」みたいなところからメッセージを出して、翌日には返事が来た。原稿のことをお話させていただいて、PDFの原稿を向こうに送って、そのあと1ヶ月、連絡が来なかった。

メールには「返事には時間がかかることがあります」なんて書かれていたんだけれど、1ヶ月はやっぱり長かった。

うちの母親は、もともと大きな出版社に勤めていたから、このあたりの経過を相談したんだけれど、やっぱり「そんなもんだ」なんて言われた。書籍1冊分の原稿に目を通すのは大変で、何よりも出版社には、「本を出したいんです」なんて人がたくさん来るから、読まなくてはいけない原稿は莫大なのだと。出版物を作るときには「後戻り」の効かないタイミングというのがいくつもあって、会議を一度通過してしまうと、その原稿を止めることは難しいから、読むほうはどうしても、時間をかけて、慎重な仕事が要求されるのだと。

納得はできたんだけれど、やっぱりひたすら待つことすらできなくて、待ったあげく、お話は流れた。

紙と赤ペンにできること

次の出版社はずいぶん速かった。最初のメールこそ、返事をもらうまでに2週間かかったけれど、あとは大体4日に1回、お互いにメールのやりとりができて、大体1ヶ月半ぐらいで、原稿は会議にかけられた。お話こそ流れてしまったけれど、やっぱり通信サイクルというものは、短くなった分だけ、安心感増すんだな、なんて思った。

通信の基本はメールだったけれど、そこから先は「紙と赤ペン」になるはずだった。原稿が出来上がったとして、それは印刷されて、「ゲラ刷り」の形で作者に戻される。作者はゲラを見て、直すべき場所をペンで修正して、出版社の人が、それを取りに来る。これは相当に大変で、お話ではこういうサイクルが4回ぐらい回せるとのことだったんだけれど、4サイクルというのは、こういうやりかたではたぶん限界に近いスピードで、実際問題、出版社の人は仕事を終えてからうちの病院に来てくれて、終電で自宅に帰って行かれた。

原稿をお願いする側としては、通信サイクルは短いほどに快適ではあって、それはもちろんありがたいことなんだけれど、あれでは体を壊してしまうと思った。

オーム社のやりかた

オーム社開発部での開発体制 に詳しいけれど、この出版社のやりかたは、いろいろ独特だった。

「出版したいんです」なんてメールを出して、その日の午後には返事が来て、5日目には「メーリングリストを立ち上げました」なんてメールが来た。

翌週の時点で、まだ企画が通るかどうかも分からないのに、予定販売数だとか予定価格、出版物の大きさ、原稿の締め切りと、校正の締め切り、印刷会社への入稿締め切りと、配本予定日は、全て決まっていた。

原稿は、オーム社のサーバー内で、Subversion というバージョン管理ソフトの管理下に置かれる。自分はそこから原稿をダウンロードして、直したいところを直して、直した原稿を送り返すと、変更された箇所が一覧になって、メーリングリストに入っている全ての人間に、電子メールで自動配信される。印刷原稿の出力は、今は完全に自動化されていて、原稿をオーム社に送ってしばらくすると、FTPサーバーには、新しいバージョンの印刷原稿が、PDFの形で置かれて、ダウンロードして手元で閲覧できる。

変更履歴はTrac という進捗管理ソフトに、やっぱり逐一、自動記録される。著者側から編集部への要望だとか、あるいは編集部から著者側への要望は、Trac のチケット機能を使って、重要度と締め切りとを設定して、お互いに要望を伝えることができる。チケットは全ての人に閲覧可能だから、通信のログがそこに残って、「言った言わない」の問題が発生しない。

Trac にはWiki の機能もついている。たとえば「他の本だとこういう記載になっています」みたいな抜き書きを、リストとしてそこに掲示することもできるし、原稿を何パターンかWiki に上げておいて、出版社の人と、どれで行くべきかをそこで討議することもできる。アプリケーションを使うのに慣れは必要なんだろうけれど、今のところは、全てペーパーレスで作業をこなしている。

一緒に仕事をさせていただいて、まだ1ヶ月ちょっとなんだけれど、メールはすでに100通を超えた。

面白い物を生み出す仕組み

紙と赤ペンで作るやりかたは、まじめで「質」を重視しているんだと思う。作者の側は、満足するまで原稿を作って、原稿は一度編集部に持ち帰られて、今度は編集部が、それをプロの仕事で本にする。それぞれの工程が確実でないとうまくいかないし、こだわった結果としていい物ができるのかもしれないけれど、後戻りができないし、時間がかかる。

今の仕組みは、「マイルストーン」と呼ばれる、作業工程ごとの締め切りがまず決定されて、毎日の改訂と、試作とを繰り返しながら、定められた時間の中で、できることを精一杯やる、というやりかた。上の先生がたにレビューをお願いしているその間にも、原稿は毎日のように改訂されて、下手すると「赤ペン」の入ったその場所に、その章はすでに無かったりするんだけれど、Subversion には全ての原稿バージョンがそろっているから、こうした変化に対応できる。

大学にいた頃、前の版の原稿は、目の前で右往左往している研修医の「ために」、俺様がいい本を作って「やる」という、すごく押しつけがましい、暑苦しい動機で作っていた。動機は下品だったけれど強力で、フィードバックは毎日だったから、目的はぶれずに、原稿は案外すんなり形になった。

今の原稿は、「ネットでみんなで」作ろうと意図してはじめた。お互い対等な「みんな」が、知恵を持ち寄って何かが作れれば、それはきっとすばらしい物になるだろうなんて夢見てたから。残念ながら、実は「みんな」は少なくて、プロジェクトは迷走した。ものを作る側の、下世話で下品な欲求の引き受け手になる何かが、「みんなで」という漠然とした空間には存在しないことが、なんだか致命的な欠点に思えて、今は少し閉じたところで話を進めて、原稿はようやく、形になりつつある。

「まじめでない」物が作れない仕組みというのは、まじめな物を作るのにも、ふさわしい仕組みではないのだと思う。 たとえば「そのやりかたでアダルトゲームを作ったとして、面白いものができるのか?」という問いかけは、あらゆる仕組みに対する試金石になるような気がする。

工程ごとに会議を行って、後戻りを決して許さないようなやりかた、「みんなで」何かやるという目標設定からは、残念ながら面白い物を生み出すのは難しい。これは「まじめな」物だから、高品質は達成できると宣言したところで、エロが作れないそのやりかたでは、説得力は上がらない。

通信の密度を上げること。試作を連日繰り返すこと。後戻りを常に許容するシステムを構築して、「これは何なのか」という意味の制約、マイルストーンという時間の制約の中で、文脈を共有したメンバーが試行錯誤を繰り返す今のやりかたは、まさにゲームの作りかたなんだろうけれど、やはりこういうのが正解に近いのだと思う。