生産的な言葉の値段

要するに声がほしい。自分が抱えている問題に対して、その「声」をもらうことで、問題が解決したり、少なくとも問題を抱えて声を聞く、そんな体験を通じて、少しでも前に進みたい。

こういう欲求は、裏を返せば「俺様に耳あたりのいい、役に立つ言葉だけをたくさん聞きたい」というわがままの裏返しにしか過ぎないんだけれど、そういうものを買えるなら、ぜひお金を払いたい。お金を払う用意があっても、そういうサービスは見当たらなくて、結果としてたぶん、自分はインターネットという場所で、ずっとこんなことをしているんだと思う。

見込みのない奴はほめられる

はじめて自分の原稿を公開したときには、それはもう絶賛だった。

「すばらしいです」とか、「本になったら買います」だとか、まだまだ不完全な、ページ数も今の6割ぐらいしかなかったものを、みんなこぞってほめてくれた。

いい気になってページが増えて、原稿を、最初は業界最大手の出版社に持ち込んだ。去年の7月頃。

すごくほめられた。「これはよく書けていますね」だとか、「ネット上で、文章が改良されている経過がよく分かりますね」だとか。ほめてもらったのに、編集部の言葉をいくらもらっても、自分の原稿は変化しなかった。変化は要請されなかったから。月に1回ぐらいのペースで、出版社の人とメールのやりとりをして、その都度ほめてもらいながら、ほめられ続けて10月頃、「やっぱり売り物になりませんね」なんて、話は潰れた。「末筆となりましたが,先生の益々のご活躍を心よりお祈り申し上げます」なんて、出版社の人は、最後までほめてくれた。

改良につながる言葉

あきらめきれなくて、原稿を今度は、別の医学系出版社に相談した。出版社の方は、「これは商売になる」という判断をしてくれた。

原稿は、少しはほめられたんだけれど、厳しかった。「そもそもこの原稿のどこが新しいのか、それを説明する文章を書いて下さい」と言われたのがつらかった。ネットに公開した段階では、「みんな分かってくれてる」とばかり思ってて、そう言われたその時まで、「分かってくれる人はすごく少ない」ことに、作者である自分は、全く気がついていなかったから。

「ここを直して下さい」だとか、「この部分は分かりにくいです」だとか、原稿には注文がついた。

「前書き」に相当する部分を作るだとか、文章をもっとパターン化して、どこにどんな情報があるのか分かりやすくするだとか、自分が「あえてそうしたくない」と思っていた、「尖った」部分、「俺かっこいい」なんて自己満足していたところはことごとく指摘を受けて、結局全部直すことになった。

それは面倒で見ない振りをしていたり、あるいは潜在的に見たくないから、「これでいいんだ」なんて自己正当化していた部分であったり、痛いところを突かれるのは、やっぱり痛いことだったんだけれど、刺さる意見をたくさんもらって、原稿は分かりやすくなった。原稿をインターネットで公開してから、原稿は初めて改良されて、自分以外の誰かの声が、原稿の体裁を大きく変えた。

このときには、いいところまで話が進んだんだけれど、いろいろあって、やっぱり話はまた流れた。

出資者としての編集者

この頃の顛末を 「雑な物づくり」に未来がある」 という文章にしてまとめたら、少しだけ反響があった。

「そういうことしたいなら オーム社 だよ」とか、「何でオーム社から出さないの」とか、各方面からそういう言葉をもらって、原稿を「オーム社」に持ち込んだ。

オーム社からは、「数字」に関する質問をいただいた。

原稿が出版されるとして、本の読者の数はどれぐらいで、それを何年かけて売るつもりなのか。「勝算」というか、数字を挙げて、作者はこの本の読者を、どれぐらいの確度で「皮算用」できるのか。自分の場合には、ホームページの平均ページビューだとか、ユニークユーザー数、あるいは以前に相談を持ちかけた出版社の人が、「大体これぐらいでしょう」なんて見込んでくれた数字を持っていたから、それを提示することができた。

出版社という組織は本来、「原稿の良さに値段をつける」ことではなくて、むしろ「作者のために何らかのリスクを肩代わりする」ことで対価を得ている人たちなんだと思う。だからたぶん、出版を依頼することというのは、「原稿を見てもらう」ことであると同時に、企業を作りたい人が出資者に行うような、一種のプレゼンテーションの機会なのだと思う。

「医学系の出版社から医学系の本を出す」ような、出版社の専門分野から、その分野の本を出すときには、このあたりの計算は、出版社の人がやってくれる。前の出版社と相談したときには、数字に関するお話は、「我々はこの本の売り上げを、これぐらいと見込んでいます」なんて、向こう側からお話をいただいたから。

オーム社で企画が通って、やっぱりいろいろ、自分がやってこなかった部分を指摘された。あちこち刺されて今に至って、ようやく何となく、出版というのはこういうことで、原稿と商品との間にある溝というのは、近いようでいてずいぶん遠いんだななんて、商品を作ることの意味が、少しだけ分かった気がしている。

利害サークルのこちら側

人の「言葉」、それをもらって消化すると、自分が今抱えている問題の解決に役立つ言葉というものを得るのは難しい。 それはお金では買えないし、企画の「良さ」を磨いても、たぶんまだ届かない。

「ネットでみんなで」みたいなものであっても、あるいは学園祭みたいな企画ものであっても、みんなで何かを作ろうなんて考える、世の中の多くのリーダーが、たぶん「こんなにいいプロジェクトなのに協力が得られなかった」という、物足りなさみたいなものを抱えて、プロジェクトを閉じる。それがどれだけ「成功」判定をもらっても、満足感を得られる人はたぶん少ない。

リーダーをやる、旗を振るという行為も「コミュニケーション」なんだと思う。自分はそうだった。旗を振っている人は、「仲間の言葉」がほしいんだけれど、 リーダーが、プロジェクトの「良さ」で人を引きつけようと考えた時点で、たぶんコミュニケーションとしてのそのプロジェクトは失敗してしまう。

心に刺さってくるような言葉、痛いんだけれど、それを消化することで何かが改良されるような言葉をもらって、物事を前に進めるためには、だから「良さ」なんかよりも、お互いに利害関係を共有できるような仕組み作りが大事なんだと思う。向こう側にいるお客さんを、「こっち側」に引きずり込むような、観客でなく、傍観者でなく、シンジケートを構成する仲間としての「言葉」をもらう、そんな道具立て。

ずいぶんと回り道になったけれど、本気度の高い意見を集める、あるいはそれを通じて勉強する手段として、商業出版というやりかたは、結果としていい方法だったのだと思うし、「クラウドソーシング」みたいなやりかたが広まったとして、実のある声を集める仕組みとしての、出版社だとか、編集者みたいな立場の人は、やっぱり必要なんだと思う。あるいは今さらなんだけれど、大学のやりかた、卒業論文という、指導教官との、一種の利害を共有した関係で何かを書くというあのやりかたは、教官がそれに応えてくれるなら、「刺さる言葉」をお金で購入できる、貴重な機会だったんだろうと思った。