多発外傷の人が来た

当直の反省。

内科の一人当直。その日の救急当番病院は、地域の総合病院だったのに、 多発外傷の患者さんを引き受けることになった。

「自転車で転んだ患者さんです。軽症です。顔から出血しています」

その日の当番病院が忙しいとかで、「自転車で転んだ」患者さんがうちに来ることになった。 「内科の先生でも大丈夫です」なんて。

たしかにその患者さんは自転車で転んだんだけれど、その上を、 自動車に通過されてた。顔から骨見えて、足はあらぬ方向に曲がってた。血圧は触れたけれど、意識は怪しかった。

多発外傷を内科で診るの無理だから、慌てて当番病院に電話した。さすがに嘘言えないから、 正直に話したら、むこうは満床になった。目の前真っ黒になった。そんなはずないのに。

頭真っ白になりながら、ライン取ってモニターつけて、外科の先生と検査の人呼んだ。

待つまでの20分が、長かった。

ご家族の目は怖い

多発外傷の超急性期は、やることが無数にあるように見えて、やることありすぎて、 実質何もできない。命に関わるような外傷は、手術室が準備できないと手を出せないし、 骨盤を含めた骨折も、状態が安定するまでの間は、手を出せない。

データが揃って人が集まるまでの間、当直はだから、ラインとモニターつないで、あとは 傷口洗うことぐらいしか、「治療」っぽいことができない。

応援が来る前に、病院には身内の人がたくさん集まった。

あなたはどうして叔父の傍らで無為に佇んでいるのですか ? 痴呆なのですか ?

囲まれて、だいたいこんな内容のことを、100倍ぐらい怖くして、尋ねられた。

「今診察を行っている最中ですので、もうしばらく待合室でお待ち下さい」なんてひたすら拝み倒して、 その間ほんの数分だったんだけれど、それがもうとてつもなく長かった。

嘘はよくない

救急隊に、もしも全てを正直に言われてたら「無理です」なんて返事したけれど、 状況を事前に把握できてれば、もっとできることはあった。

「転んだ人」は軽症だろうなんて、重症運んでる救急車を待つ15分間、時間は出血した。

全身の骨に骨折を生じていること。出血のコントールがついてなくて、 救急車内ですでにショック状態であること。最初から分かっていれば、待ってる間に人を呼べた。

小さな病院は、レントゲン技師さんなんかは、基本的にオンコール。当直体制を 引くためには莫大なお金がかかって、小さな施設だと、検査にそこまでの需要がないから、 当直組めない。

技師さんに電話でお願いして、実際来てもらうまで20分。みんなが「正直」で、 正しい情報伝達が為されている前提ならば、20分という時間は十分に現実的なんだけれど、 嘘つかれると大変。

病院に救急車が到着するまで15分。患者さん診て技師さん呼んで、来るまで20分。 最初から本当のところ教えてもらえれば、患者さんの待ち時間は5分間にまで縮められた。

今回のケースは結果として上手くいって、20分の遅れというのは、致命的なことにつながらなかったけれど、 患者さんがたとえば緊張性気胸を起こしてたり、腹腔内に大量の出血を生じてたりしたら、 たぶん大変なことになっていた。

救急隊は、一刻も早く「誰か」に患者さん渡したい。本当のこと話すと、とくにそれがお酒飲んでるだとか、 傷だらけで血まみれだとか、そういう情報を正直に話すと、今の時代、どこの施設も「無理です」なんて 返事が返ってくる。だから「本当のこと」を話せない。

救急隊が「嘘をつく」ことが前提になってしまうと、受けるほうもまた、嘘をつかざるを得ない。 当直医は極限まで無能化して、たとえ「擦り傷です」なんていわれたところで、 「私無能だから擦り傷分かりません」なんて。

うちみたいな小さな医療圏ですらこうなんだから、もっと厳しい地域では、 とうの昔に信頼の輪が破綻してて、送るほうも、受けるほうも、きっと疑心暗鬼がすごいんだろうなと思う。

待つのはつらい

患者さんが落ち着くまでの外傷治療は、輸液入れて、落ち着くまで「待つ」のが基本。

「待つ」というのは、当事者として実際やってみると、本当にきつい。身内の方がたくさん集まってるときなんか、 目線が痛くてものすごく辛い。

「待つ」ことにだって意味があるんだけれど、外から見ると、状況は動かない。 患者さんが輸液に反応して、きちんと持ち直せば、もちろんそれでいいんだけれど、 「持ち直さなかったとき」の選択枝は、外傷の時は、あるようでいてなかったりするから、きっと厳しい。

目線に対する耐性は、患者さんの状態と、手元にある情報の量が決める。患者さんが落ち着くならば、 あるいは状態が悪くても、原因がある程度明らかで、やるべきことが見えてれば、 たくさんの目線と対峙しても、そんなに怖くない。目線に負けてしまうと、ご家族としゃべるのが 急激に辛くなって、その場所から逃げ出したくなる。逃げるところなんてどこにもないんだけれど。

外傷の初期に「待ち」を入れるやりかたは、だから実際に自分でやってみると相当な精神力を要求される。 「待った」結果で心が折れて、医師が状況を自分でコントロールできなくなるケースはきっと多くて、 たぶん日本のあちこちで、みんなルールを破って検査に走ってるはず。

CTは役に立つ

外傷診療のガイドラインは、「患者さんの声」を大切にする。

患者さん正しく問診して、正しく診察して、患者さんの状態が落ち着くまでの間は、 救急外来からは動かさないやりかた。血液検査とか、ましてや画像診断なんて邪道は、後回し。

機械の進歩だとか、患者さんとの信頼コストがすごい勢いで高騰していることだとか、 理由はいろいろだけれど、そんなやりかたは、これからきっと変わっていく。

多発外傷の患者さんは、来たときはもちろん、状態が安定していない。安定していないから、 患者さんは自分のことをきちんと語れないし、痛がってたり、酔っぱらってたりすると、 もっと語れない。問診とか理学所見とか、正確さが患者さんの状態に依存する検査は、 こういうとき信頼性を保証できない。

エコーはあんまり役に立たない。自分が下手なのが悪いんだけれど、体格がいい人だったり、 全身傷だらけでエコー当てる余地なかったりすると、もう分からない。

外傷の治療手段は、そのうちたぶん、「病院に来たらすぐCT」に落ち着くような気がしている。

たとえば「水槽の中を泳ぎ回る魚」を数えるのは、けっこう難しい。動いてしまって、 最初の数匹を数えたところで、もう分からなくなってしまう。泳ぐ魚を水槽ごと写真に撮って、 写真に写った魚を数えれば、こんな時うまく行く。

CTスキャンは、今ではもう珍しくもない機械だけれど、問診だとか、エコーなんかと違って、 客観的な画像を残せる。これを使って、「診断ライン」と「治療ライン」と、一人の患者さんに対して、 マンパワーを2系統、同時に走らせることができる。

CTスキャンは、昔は「死の門」とか言われてて、CT切ってる間に患者さん亡くなったとか、 珍しい話じゃなかったけれど、電子機器の進歩は速い。今の機械は、頭から骨盤まで 切るのに1分ぐらいで行ける。

何よりも、CT1回切るだけで、あふれんばかりの情報が手に入る。 診断するための、方針決めるための、何よりも、集まったご家族の目線圧力に 耐え抜くための、情報というのは、強力な武器になる。

コミュニケーションとしての外傷診療

外傷診療のコミュニケーション要素について、もっと考えられてもいいかなと思った。 まだ応援来なくて、救急外来に自分しかいなくて、いきり立ったご家族に囲まれて、 すごくそう思った。

それが擦り傷でも動脈出血でも、とにかくまずはガーゼで覆って、外から見える血を隠すこと。 バックボードとかネックカラーとか、血で汚れた道具を可能な限り速く外して、 雰囲気「治療されてる」感覚を、一刻も早く演出すること。

みんなが興奮して、現場をコントロールできなくなる事態を避けるためには、もしかしたら もっとも最初に後回しにされるべきなのは、患者さんの病気それ自体なのかもしれない。

男塾に出てきた王大人の治療手技、とにかく見える傷口に包帯ぐるぐるに巻いて、 「治療完了」を宣言するやりかたには、たぶん一面の真実を認めないといけない。

包帯巻くことそれ自体は、患者さんの予後には影響しないけれど、 その光景を見たご家族にとっては、たぶん「包帯の有無」というのは、その後のスタッフを見る目を変える。

それを「意味がないごまかし」と断じるのは間違いで、包帯の効果というものは、 患者さんと、その人を取り巻くご家族という系それ自体に対する治療効果として、 きちんと医師が論じないといけないものなんだと思う。

以前どこだかの事故現場で、子供さんが亡くなった。親御さんがそれを受け止められなくて、 「子どもの顔の傷を何とかしてくれ!」だとか叫んでて、 医師が「もう亡くなってます」なんて言っても全然効果なかったのに、 居合わせた看護婦さんが絆創膏を一枚、亡くなったその子の顔に貼ったら、 親御さんは、子どもの死を受け入れたのだなんて話があった。

外傷みたいな病気ですら、やっぱりコミュニケーションの問題からは自由になれない。

ひどい外傷の患者さん抱えた夜、こんなことを考えてた。