医療コミュニケーション覚え書き

次があったら、今度は「医療コミュニケーション」という本を作りたい。

企画の概要

自分が作っている新旧blog から、「コミュニケーション」タグでくくった文章をなるべく使い回すようなやりかたで、新書ぐらいの分量を目指す。企画はなるべく小さく軽く。「これから書きます」でなく、「こんなものを書きました」のやりかたで。

使い回しを多くして、目新しい内容を減らしたい。今から調べて書くなら、もっとふさわしい人が世の中にはたくさんいる。

企画の目新しさを、むしろ外部レビューに求めたい。いろんな業界の、怖そうな人たちにレビューをお願いして、自分たちの業界にフィードバックをかけたい。

  • コミュニケーションのやりかたを、「理解」、「納得」、「説得」、「謝罪」のそれぞれに分けて書こうと思う。それぞれの単語が俺定義だから、単語は変わる可能性も高い
  • 「暴力的な分かりやすさ」というものを裏テーマにしたい。分かりやすさは暴力と等価で、分かりやすさを鍛えると、恫喝より強力な手法に成長する *ビジュアルイメージとして、格闘技みたいなのを想定する。動き回る患者さんと、それを受ける医療者と
  • 動く方向だとか、意図なんかをすりあわせて、お互い組み合うまでの工程が「理解」
  • お互いの「襟」をつかみ合った状態で、動作を一度止めて、どこか特定の場所に着地するまでの工程が「納得」
  • 着地が得られて、その場所が、医療者から見て適切でなかったとき、場所の意味を書き換えたり、相手に動作を促すことで、医療者が意図した場所に誘導する方法が「説得」
  • 状況が意図しなかった場所に着地して、今度は逆に、医療者側から相手の着地点に、一刻も早く駆け寄るための方法論が「謝罪」

理解

  • 「理解」編は、まずは「理解環境」を設営するやりかたから入らないといけない。椅子の置き方とか、待ち時間の設定のやりかた
  • 待たされた人は、待たされた時間だけ話を聞きたがる。外来の速い人は、だから外来が速くて1分診療なのに、待ち時間が短いから、それでも患者さんの満足度が上がる
  • 「むかつく人」というのがいる。話しかたは丁寧で、明らかに「いい人」なのに、なぜかその人の言葉を聞くといらいらする。こういう人は、相手の「構え方」を設定することに失敗している
  • 「お忙しいところ恐れ入ります。先生今お時間大丈夫ですか?」とか、ものすごく丁寧な言葉だけれど、これは何も語っていないに等しい。「患者さんが急変しました。すぐ来てください。こういう状況になっています」なんて言ってくれると、内心びっくりだけれど、「構え」が決まるから、とても快適。あるいは「単なる報告で、状況は落ち着いているのですが、報告させて下さい」とか
  • 個人的には患者さんのご家族が来たときにも、なるべく早いタイミングで、それこそ「コンマ秒」を争うタイミングで、「構え方」をお話しする。「急変というわけでなくて、経過報告と思って聞いてほしいのですが」とか、「重たい軽いで言ったら、今の患者さんの状況は、相当に重たい状況です。ご家族に判断をお願いしたくて、今日来ていただきました」とか
  • 理解とは、交渉の開始というか、交渉の需要を生むための工程で、理解がなければ、そもそも交渉を行う理由が生まれない
  • 理解環境が整ってから、はじめて説明が意味を持つ。たとえ話を使ったやりかた
  • たとえ話の距離感のことを書かないといけない。平田オリザの演劇論。美術館が舞台だったとして、町を歩く普通の人は、「ああ、美術館はいいなあ」とか、絶対言わない。「遠いたとえ」から「近いたとえ」へ、説明というものは、距離感を意識しないといけない

納得

  • 「納得」編は、結論の受容が目標になる。これがしばしば、「結論の押しつけ」になって、トラブルになる
  • たとえば病名は、患者さんの口から出されないといけない。医療者が病名を語ってはいけない
  • ○○さんは認知症が厳しくて、という言いかたは良くない。単語には所有者が決まっている。病名は患者さんのものであって、医師が押しつけるものじゃない
  • くだんのその人が、夜間に徘徊するとか、点滴をすぐに抜くとか、食べた食事をすぐに忘れるとか、これは「事実」であって、事実の所有者は病院。これは伝えても大丈夫だし、伝えないといけない
  • 「判断を受け入れる」ことは、ある意味「負け」を意味する。「納得」という工程の、もっともいい形は「医療者が正しく負ける」ことであって、患者さんが敗北を受け入れるのは、最悪であると認識すべき
  • だから医療者から伝えられるのは事実の積み重ねであって、「理解」がしっかりと為されているところに事実が伝えられたのなら、病名は、正しい理解の帰結として、患者さんの口から出てくる。医師はこれを容認する、「医療者の敗北」を宣言することで、納得が完結する
  • 検査を乱発するやりかたは、だからコミュニケーションの材料として、極めて有効なんだと思う。聴診の所見を解釈するには訓練が必要で、患者さんが聴診を納得するのは難しい。ところが気胸とか、イレウスとか、CTスキャンの画像を見て、「ここがおかしい」と指摘することなら、小学生でもすぐできる
  • 「納得」工程を円滑に行うために、医療者と患者さん側と、同じ教科書、同じやりかたを共有することは、本来とても大切なんだと思う

説得

  • 「説得」編は、相手の納得を書き換えるやりかた。ここは自分の得意分野
  • ここについてはやはり、扇動の技術とか、広告の技術みたいなものが援用されることになると思う。裏を返せば、営業の人とか、ソーシャルエンジニア、広告の人たちが使う技術というものも、医療コミュニケーションにおいては、1/4 のコンポーネントを占めることしかできない。このへんは書いてみないと分からないけれど、4分野の分量は等しくないと、どこかでおかしくなる
  • 「51%の納得を目指す」人質交渉人のやりかたは、あれは「説得」でなく、むしろ「納得」のやりかた。犯人の側から、「俺の負けだ」という言葉を出してもらうために、あれだけの人手と、時間とが必要になる。「俺の負けだ」と宣言することで、犯人は、人質交渉人よりも先に結論にたどり着く、言わば「勝った」ことになる。あれは「説得」ではない
  • 説得は、むしろ欺瞞のテクニックであって、それを開始するためにはまず、相手と自分と、同じ場所に、一度は着地して、結論を共有する必要がある。共有できてから、今度はその場所の意味だとか、価値なんかを書き換えて、「あっちにもっと快適な場所があるように見えるんですが、どう思います?」とかやるのが、説得なんだと思う
  • このへんには間違いなく「名人」がいる。名人は、何らかの方法で、納得の工程に説得を忍び込ませたり、あるいは見た目のインパクトだとか、状況設定の巧みさ、事件の演出みたいな方法で「理解」工程をスキップしたり、「熟練」よりも「ずる」に近いやりかたで、名人は名人であり続ける

謝罪

  • 謝罪の失敗は、多くは「見切りの遅延」なんだと思う。謝り方それ自体は、誰がやっても、どうやっても、そんなに変わらない。タイミングが大切
  • 謝罪を行うためには、あるいは謝罪という方法論を語るためには、だから見切りかた、「戦局眼」を解説しないといけない
  • 人を殺すには弾丸があれば良くて、だから引き金を引く根拠さえそろえば戦争はできるし、それ以外の情報をどれだけたくさん集めようが、それは意志決定を遅らせて、状況を悪い方向、悪い方向へと持って行ってしまう
  • 恐らくは「謝罪」という行為についても、それを決定するのに必要な、最小限の手がかりというか、根拠があって、それがそろったら、速やかに謝罪に入らないといけないんだと思う
  • 「戦場の摩擦」に相当する、意志決定を遅らせるもう一つの要因は、何といっても「医師のプライド」なんだと思う。頭を下げたら「負け」であって、医師なんて、卒業してからの人称がずっと「先生」なんだから、狂って当然で、たぶん世界で一番負けたくない人種。下らないことなんだけれど、これがあるから、医療の失敗は、しばしば謝罪の失敗を生んで、すごいトラブルになる
  • 「謝罪の戦局眼」を身につけることではまだ正解の半分であって、もう一つ大事なのは、だから納得のいく自己欺瞞イメージをどうやってい形成すればいいのかなんだと思う
  • アルファブロガーをもらってから、自分はたぶん丸くなった。欺瞞イメージがある程度これで安定して、意志決定が安定した。他の人からのツッコミに対して、その生産的な部分をとり入れる余裕が生まれた
  • 意志決定を謝らせる要因として、「プライド」というのは相当に大きくて、これを透過的に扱うためには、自己欺瞞イメージが要る
  • 謝罪という行為と、たとえば患者さんの状態が悪いことを家族に伝えることと、方法論はたぶんよく似ている気がする。悪い話は、早すぎても、遅すぎてもよくない。謝罪の意味する範囲は、だからこの企画の中ではずいぶん幅広い
  • 謝罪という行為は、医療者の側から、これ以上のサービスは提供できないという、一種の最後通告みたいなものだから、速すぎればたぶん、それはそれで悪いことになる。医学的にやるべき事が為されて、しかもそれが患者さんの予想を下回った成果しか上げられなくて、患者さんのその認識には一定の正当性があって、しかもそれを「説得」で書き換えることが難しい、コスト的に引き合わない、という状況がそろって、はじめて謝罪に意味が生まれる
  • 歴史上の「名将」と呼ばれた人は、基本的に一つの「型」に従って勝ってきた。変幻自在の人というのは少なくて、その人なりの勝ちパターンというものを持っていて、戦術というのは、相手をそのパターンにはめるための方法論として生み出されてきた
  • 「戦争学」と「謝罪学」は同じ方法論を共有する学問なんだと思う。正しく負けるためには、まずは「得意な負け型」というものを自らに想定して、それを訓練しないといけない
  • 整形外科医がたとえば胃潰瘍を見逃したとして、もちろんこれは謝罪の対象だけれど、謝って、償って、謝った医師本人の、「整形外科医」という自己イメージはほとんど傷つかない。このケースだとたぶん、謝罪は速やかに行われて、犯した過ち以上のダメージにはならない。これが心筋梗塞を見逃した循環器内科医であっても、ある意味同様で、「型」こそ違え、「それは特殊なケースだったのだ」だの、「自分が見逃すなら誰だって見逃す」だの、これは自らを傷つけないための単なる詭弁なんだけれど、こういう自己イメージの保護が速やかに発動するから、謝罪の遅延可能性はそれだけ少ない
  • ところがたとえば「家庭医」や「総合医」みたいな人は、謝罪の得意型を持たない。失敗すればそれは「主治医が無能」であったわけで、もともと総合医は、専門医に比べて専門分野で競争すれば「劣る」のはある意味当たり前なんだから、余計に逃げようがない。劣ることを認めつつ、それを「総合」で挽回する、こういう人たちの負け型を想像するのは難しくて、これは小児科や産婦人科も同様の問題を抱えている気がする。自己イメージの損傷を回避しつつ、小さく負ける、正しい負け型を戦術として想定できないが故に、こうした科では、後方の援護が期待できないと、トラブルを避けられないのだと思う

課題

  • 夜中の無茶な要求を「斜め受け」、縦深を設定して受け流すのはどこに入ることになるのか分からない。一緒に朝を待ちましょうとか、点滴して絶食して、翌朝検査しましょうとか
  • 交渉の外側にいる人たちに対して、分かりやすさという長所は無力であって、こういう人たちに対するやりかたは、自分には全然分からない。逃げ出すしかない。分かりやすさという武器は、磨いたところで、しょせんは不完全なものにしかならない
  • そもそもこれをまとめたとして、じゃあどういう人たちが想定読者になるのか、ちょっと分からない。「面白い」本にはなるだろうけれど、顧客を特定できない本というのは、そもそも出版という企画に載せる意味がない