「学」は平凡に価値を付加する

根拠なんてなくても、すごい技術を持っていればそれでご飯が食べられるけれど、状況が変わったり、才能のある素人が業界を浸食すると、技術は安く買いたたかれて、最後には業界が滅んでしまう。

業界の仕事が「学」として確立すると、平凡であることにも価値が生まれて、お金を取る根拠が生まれるのだと思う。

才能は買い叩かれる

プロが「才能の無駄遣い」を発揮する場面が増えた。ニコニコ動画もそうなんだろうし、blog が増えて、専門家が自分の意見を書く場面が増えて、フリーライターの人たちなんかは、今はけっこう大変らしい。ある分野の専門家は、たぶん「書くこと」以外の仕事で食べているのだろうから、何かを書くことそれ自体は「才能の無駄遣い」であって、それは無償で為されることが多いから。

いろんな業界の「才能の無駄遣い」は、それを見せてもらうのははすごく面白いのだけれど、残念ながらそれは「無駄」であって「無償」が前提で、そのうちそれが当たり前になると、業界もろとも細ってしまう。

作家の人が、無償で文章の提供を求められたりだとか、あるいは自分たちの時間外残業が、「熱意」の一言でボランティア査定されたりだとか、いろんな分野のプロが「才能の無駄遣い」を見せていくにつれて、プロがプロとして生きていける場所は、むしろだんだんと狭くなってしまう。

プロはだから、自らの価値を下げるような仕事をしてはいけないんだけれど、それにはやっぱり限界があるし、「業界のしきたり」みたいなやりかたで、自分の生活を守ろうとすると、今度はたぶん、「既得権」とか「カルテル」とか叩かれる。JASRAC みたいに。

「学」を作って生き残る

医学なんかはたぶん、大昔に活躍した呪い師の末裔で、今は薬草を調合する必要もない。症状をみて、判断を下して、処方箋が書ければ、仕事はできる。

外科みたいな科はまた話がずいぶん違うんだけれど、内科医のお仕事というのは、突き詰めれば「診断」と「処方」だけだから、それが血栓溶解剤だろうが抗がん剤だろうが、薬の名前さえ知っていれば、それを処方することはできる。

医学書なんて本屋さんに行けば売っているし、薬の本があれば、処方も出せる。じゃあたとえば、医療が「自由化」されて、医師免許なしでも、誰もが自由に処方箋が書ける世の中になったとして、たとえそうなっても、やっぱり病院に来る人は多いような気がする。

これはやっぱり、医療という業界が、ずいぶん昔から「学」として確立していることを宣言しているからなのだと思う。それが「学である」と宣言することで、再現可能な平凡な技術が、平凡であることに価値が生まれる。「学」に対して求められるものは「平凡」だから、「頑張った俺が無料でやった」ものがあふれても、「プロの作った平凡」が、価値を失わない。

これこそが学問の力なんだと思う。

ゴッドハンドは平凡

自分たち医療の業界で、たとえば「ゴッドハンド」なんて言われる人たちは、やっていることは「平凡」であることが多い。ゴッドハンドは、「その状況でもなお平凡でいられる」人が、全世界でその人しかいないだけの話で、ゴッドハンドがやっていることそれ自体は、「単なる手術」だし、「単なる治療」であることが多い。脳外科の福島先生も、ブラックジャックも、スーパードクターKだって、、そのへんは変わらない。

たとえば ブラックジャックしか手術ができない患者さんがいたとして、BJ じゃない医師にだって、その患者さんに手術が必要であるぐらいのことは分かる。医学は「学」として確立しているから、判断には再現性があって、ここまでは誰でも到達できる。ただしその患者さんにおいて、「教科書どおりの治療」ができる医師が、全世界でBJしかいないから、彼は物語の主人公でいられる。

「学」を宣言して生き残っているたいていの分野では、統一されたやりかたというものがあって、センスや能力の比較、定量ができる。ブラックジャックなら100人治せる患者さんが、研修医に手が出るのは、そのうち2人とか。十分なデータが与えられたなら、誰もが同じ解答に到達できるところが、「神」クラスになると、患者さんを一瞥しただけで、答えがすぐ分かるとか。

再現性と、定量性と、両者が備わると「学」が成立して、「学」が「平凡」を規定すると、その平凡に価値が生まれる。

たとえば編集は学なのか

AmazonKindle みたいな道具が上陸しそうで、出版社の人たちは、今大変なのだそうだ。原作者がいきなり出版、という道がかなり容易になる世の中が来て、そうなると、出版社の意味が失われかねないのだと。

病気を治すのに医師が必要であるように、原稿の「病気」を診断、治療して、それを「健康な」状態に、読みやすくて手に取りやすいものに仕立てるためには、編集者とか、マネージャーみたいなプロの助けは、個人的には今、すごくありがたい。

原稿もやっぱり「病気」になる。

「自己顕示病」だとか、「スタイルの強制」という病、独りよがりな努力に賞を与えて、それを捨てられない状態だとか、原稿は簡単に「病気」になって、これはたぶん、たくさんの原稿を読み慣れた人なら「診断」ができて、「治療」のやりかたも、ある程度確立している。

文字を書ければ文章は書ける。これは誰にでもできることだけれど、読みやすい文章、原稿として「健康」な状態を、個人で維持できる人はたぶん少ないし、どうせ文章を書くのなら、できるだけ「健康な」、売れる文章にしたいという需要は、無くなることはないのだと思う。

編集者を医療にたとえて、じゃあ編集というお仕事が、医療みたいに技術として、「学」として確立しているものなのかどうかが、よく分からない。伝説の編集者なんて言われる人がメディアでときどき紹介されて、みんな個性的に見えて、その技術に再現性がなさそうなのが、医療からみると違和感がある。

「編集」の業界には、たしかに名人がいる。名人が、じゃあ業界の1年生と比べて「どれぐらい」すごいのか、外野からは、そんなものさしが見えにくい。たとえば駆け出し編集者からベテラン編集者、個性のかたまりみたいな伝説の編集者とが集まって、彼らが同じ原稿を読んで、その原稿を売るために、誰もが同じアドバイスを返せるものなんだろうか?

編集者の言葉がみんな同じなら、自分のイメージする「編集学」はすでに確立しているのだろうけれど、時々ニュースになる、漫画家と編集者とのトラブルなんかを読んでいると、再現性を持った技術としての「編集学」というものが、あんまり見えてこない。

学が平凡に価値を付加する

それがはったりだろうが科学的に証明されたものであろうが、何か統一された方法論があって、再現性を持った答えを導けるものは、「学」を名乗れる。「学」を名乗ると、平凡を再現することに価値が生まれて、それを根拠にお金が取れる。

学のないところには、「才能」以外の評価軸が存在しない。平凡からお金を生み出す根拠が生まれないから、すごい才能に届かない、再現可能な平凡が買い叩かれて、業界ごと細ってしまう。

ネット時代になって、それでも変わらない業界と、「才能の無駄遣い」がもてはやされて、才能が買い叩かれて、気がついたら本当のベテランですら食べていくのが難しくなっている業界とがある。このへんを分けているのが「学」の成立なのであって、業界を引っ張るトップランナーは、生き残りをかけるなら、自分たちの仕事を「才能」ではなく「学」として、単なるすばらしさでなく、自分にしか到達できない平凡として、表現しないといけないんだろうと思う。