総務のお仕事

病院の何十周年だったか、地域の市長さんを招いての、大きなパーティーがあった。事務長さんと話したこと。

えらい人を招くのは大変

大きなパーティーで、「公人」みたいな人を何人も招くような機会というのは、やっぱりある程度以上の組織を運営していく上では避けられない。

市長さんみたいな「公」相手の行事には、きちんとした文法みたいなものがあるんだけれど、こういうのは「マナー」だとか「伝統」だとか、文章としてこれと決まったものがあるわけではないから、「ないものをきっちりとやる」ことは、案外大変なんだという。

たとえば今回、隣り合わせた市長さんが2人来たんだけれど、市の規模は違うから、「弱い」市長と「強い」市長と、違いというのが当然出てくる。こういうときには、まずは「弱い」ほうに当たって、「強い側に、こう言おうと思います」というのを許可してもらって、今度は「強い」側に行って、「私どもとしては、弱い市長に先に挨拶をお願いしようと考えているのですが、市長のご意見を伺えないでしょうか」なんて、お互いの顔を立てるやりかたをするんだという。

公人2人に参加をお願いするためには、だから「弱い」市長と「強い」市長、パーティーを開く前に、両者に2回ずつ、最低4回は足を運ばないといけない。これを電話やメールで済ますなんてもってのほかであって、絶対に「足」が必要なのだと。

市長さんの挨拶というものにも、本人が出席して挨拶を行って、パーティーにも最後まで参加する「松」コースから、挨拶だけで帰るコース、下手すると秘書の人だけが代理出席して、それで挨拶が済んだことになってしまうコースだとか、全部「市長さんの挨拶」であって、直前になってみるまで、市長さんがどんなコースで「挨拶」をくれるのか、分からないらしい。

「公人」を要請する側は、だから「約束は約束」なんて油断できない。前日の夜にもう一度お願いをするぐらいのことは当然だし、それでもなお、下手すると、本人が来なかったりするらしい。市長さん自らが挨拶を行っても、秘書の人が挨拶を行っても、同じ挨拶だから、呼んだ側の顔は立つのだけれど、そういうパーティーには、地元の顔役みたいな人がたくさん来ているから、「主催者がどのぐらいの挨拶を引き出せた」のかが問われるし、だからこそ、政治家の「正しい挨拶」には価値があって、それをお願いするのは、すごく大変で、大切らしい。

お祭りにはしきたりがある

パーティー会場のどこに記帳所を作るとか、花束とか名前の入ったお祝い看板をいただいたとして、これもまた、誰を真ん中にするとか、えらい順番はどちらがわからなのかとか、本来は全部決まってるらしい。

パーティーは「おめでたい席」だから、演台にもおめでたいものが必要で、演者から見て左側には「松の盆栽」を置かないといけない。今回はホテル側がこれを忘れて、慌てて手配したんだという。

これもまた、えらい人たちしか伝わらない、伝統とかしきたり文脈で伝わる技術で、「こうしなくてはならない」と書いてある本がないんだという。事務長さんは今回、あらゆるものを写真に納めて、若い世代に「こういうものだ」というのを伝えるつもりなのだと。

向こう側に行く技術

こういうのを「下らない」と一蹴するのは簡単だし、「そんなものはないんだよ」なんて言ってしまえば、しきたりは簡単に、無いことになってしまう。

暗黙の文法だし、それを破ったからといって、そもそも暗黙のものだから、注意する人も、怒り出す人もいないんだろうけれど、やっぱりそこには、見えない壁みたいなものがある。

日本ではたぶん、組織の規模がある程度大きくなったところで、みんなが見えない壁にぶつかる。それは大きな企業と話をするときであったり、あるいは政治の世界を巻き込まないと話が前に進まないタイミングであったり。そこには見えないんだけれど、たしかに「壁」に相当する何かがあって、それが見えない人には、その壁は、年長者の妨害にしか見えない。

こういう「暗黙の文法」を知っている人たちだけが、そうした見えない壁の向こう側に進んで、実体としての力にアクセスすることができるんだと思う。

こんな「公式の席を作る技術」というものは失われつつあって、たぶんそのうち本当に滅んでしまうんだろうけれど、過渡期である今、もしかしたらこういう知識を知っていることが、ちょっとだけ貴重なものになるのかもしれない。