大きなものの作りかた

この1年ぐらい、自分なりに大きなものを作ってきて思ったこと。

何かやりたいこととか、明確な目的があって、そんな骨格に肉をつけていくように、一つのプロダクトが仕上がっていくことは、むしろ少ないんじゃないかと思う。プロダクトというものは、たぶん最初に「制限された迷走」を行う時期があって、目的とは無関係な制限に、膨らんだ発想がぶち当たるぐらいまで大きくなって、そこではじめて、目的みたいなものが見えてくる。目的が生まれて、価値のものさしが生まれて、膨らんだ何かは今度は削られて、一つの骨格に基づいたプロダクトというものが生まれるんだと思う。

何か「これ」というものを書く、作るときにはたぶん、「こうしたい」なんて漠然とした願望はあっても、実際問題作ってみないと、「こうしたかった」という、具体的な何かは見えてこない。

「こうしたかった」は、下手すると手を動かしている本人にはついに見えることがなくて、「こうじゃないの?」なんて突っ込みが、実は正しく見えてきたりする。

制限が発想を生む

たとえば予算無制限、締め切りなし、各界のすごい人材を集めたところで、旗を振る人に「こんなものが作りたい」という願望や、目標が固まっていないと、プロジェクトはやっぱり迷走してしまう。すごい人のすごさというのは、「正しい方向」に進むすごさじゃなくて、単純に「前進する力」がものすごいだけのことがほとんどで、目標の曖昧な、制約要素の少ない、ものすごい実力を持った人で作られたチームというのは、「ものすごい力で迷走」をはじめて、下手すると力の弱いチームよりも、なおいっそう手に負えない。

青天井ルールはしばしば害悪で、目的とか願望とは無関係な「制限」というものは、必要悪どころか、むしろ生産的な発想を膨らませるのに欠かせないものなんだと思う。

この1年間ぐらいずっと原稿を書いていて、これは自分だけのプロダクトだから、制限なんて一切ないんだけれど、いずれ本にしたいと考えていたものだから、ページ数の制約があった。手元にある道具で「本」を作るためには、文房具屋さんでA5 の20穴ファイルノートを買ってくる必要があって、あれだとせいぜい150枚ぐらいしかページが挟めないから、ファイルノートの厚さというものが、自分の制約になっていた。

最初は余裕だったんだけれど、ページ数はだんだんと増えた。ファイルが閉じられなくなって、ページの制限は結果として図版の工夫につながったり、箇条書きの大幅な導入につながったり、このあたりの工夫要素は、原稿を書き始めた当初のイメージには、存在しなかった。

そのうちAmazon でもっと分厚いファイルノートが手に入るようになったりして、制約要素はまた無くなったんだけれど、今度は「出版を前提にする」という制約が導入されて、他の人に自分の原稿を説明するために、前書きだとか、略語集だとか、いろんなページを製作する必要が生まれて、「こうしたい」というイメージは固まらないまま、外から導入されるさまざまな制約の中で迷走を続けて、形はだんだんできてきた。

膨らむ中で病気が生まれる

外からの制約というのは「型枠」みたいなもので、枠の中で発想はそれでも膨らんで、そのままだとやっぱり、プロダクトは収拾のつかないものになる。

プロジェクトはしばしば、膨らむ中で「病気」になる。膨らみきったプロダクトに、「骨」となる目標が投入されるまで、病気は治らない。

「すごい俺を見てくれ」という病気

「売る」なんて話が動きはじめて、ページの上限も無くなった頃、有頂天になって、どうせだったら読んだ人に「この人はすごい」なんて思われるものを作りたくなった。

普段は見もしないような大規模臨床試験の結果を引用してみるだとか、マイナーな疾患の、下手すると日本にない薬の使いかたなんかを熱心に書き足して、ページ数は増えた。原稿には無駄な知識が詰め込まれて、今からみれば、何をやっているのかよく分からない状態に陥っていたんだけれど、原稿はいびつになって、それでも書いているときは楽しかった。

いびつさが重荷になった頃、あとから「確実さが重視されている世の中にあって、確実さには欠けるけれど有用な情報を提供する」なんて目標が外から投じられて、この目標から自分の原稿を見直すと、なんだかあちこちで無駄のかたまりで、このへんは全部削除した。

スタイルを強制する病気

自分はもともと、「索引」から教科書を使うのが好きで、通読とか、ほとんどしなかった。

だから自分の原稿も、最初のうちは「目次」がなくて、ページを開くといきなり「索引」から始まったし、そもそもが、読者が最初のページから読むことを想定していなかったから、「前書き」に相当するものも作らなかった。

すごく不親切で、「不親切さが俺様のスタイルだ」なんて、作ってるときには独りよがりな満足感があったんだけれど、企画を出版社に持ち込んで、具体的なアドバイスをいただける程度に気にかけていただいて、このへんはすぐに、「前書き入れて下さい。索引は後ろで」なんて訂正された。言われて戻して、最初のうちはちょっと不満だったんだけれど、ある程度書籍としての内容がついてくる頃になると、こういうのが恥ずかしくなった。

たぶん「内容の不足をスタイルで補おう」という病気があって、これに負けると、使いにくいものになってしまうんだろうと思う。内容がプアで、「これだと俺様の思想を分かってもらえない」なんて、書いている側に負い目みたいなのが残ってると、内容の不足を特異な「スタイル」で補おうなんて、不純な考えが持ち上がってくる。

実際問題、自分は普段「後ろから」本を開くのに、索引がわざわざ前にある本を渡されたとして、きっとそれは違和感のかたまりで使いものになっただろうと思う。

努力賞という病気

比較的最近の版まで、自分の原稿には「小腸チューブを盲目的に入れる方法」が書いてあった。何かの論文から引用した、訳すのがけっこう大変だった原稿で、見開き1ページ文字ぎっしりだった。

作るのに苦労して、ずっとそれを覚えていたものだから、ページ数の壁にぶち当たっても、その原稿は生き残ってきたんだけれど、じゃあ自分が普段、「盲目的に小腸チューブ」を入れる機会があるかと言えば、全然なかった。それが必要なら外科に頼んで入れてもらうし、小腸チューブという道具が、じゃあ患者さんの治療に絶対に欠かせない状況があるかと言えばそうでもなかった。

昔頑張って作ったという、「努力賞」と「制限」との兼ね合いに、小腸チューブの原稿はそれでも生き残ってきたんだけれど、「研修医に有用な情報を提供する」という、かなり具体的な目標に照らしたとき、小腸チューブの役割は小さくて、結局消した。

弱さが強みになる

計画はたぶん、最初はあやふやな、粘土のかたまりみたいにぶよぶよしたものとして始まる。最初は目標も方向も決められないまま、無目的に増殖していく。この時期の方向を決めるのは「制限」であって、それは予算であったり、法律であったり、締め切りであったりさまざまなんだけれど、制約が、まずはおおざっぱな形を決める。

すごい実力を持った人たちを集めて、青天井ルールでこの時期を開始してしまうと、そこは地獄になる。発想はどこまでも大きく複雑になって、そこにどんな目標を見出せばいいのか、どれだけ有能なマネージャーでも、いざ「骨」を入れようとして、収拾がつかなくなってしまう。

「無能な誰か」という存在が、あるいはたぶんこの時期に貴重な「制限」をもたらしてくれる。その人が理解できないこと、あるいは使わないものというのは、たぶんプロジェクトに明確な目標や、ビジョンが生まれた頃になっても、やっぱり使われないだろうから。プロダクトというのは顧客に使われるものであって、作る側は、顧客に比べてそのプロダクトに詳しくて当然だから、誰か「弱い人」がいると、まずはその人に合わせてものを作れる。目標があやふやな時期、それは貴重な制約要素になる。

自分の原稿は、「A5ファイルのリングの大きさ」というのが最初の制限で、もうひとつ、「研修医だった頃の自分」という、弱いメンバーがいた。

原稿それ自体は、もう10年も前から書きためていて、昔書いた原稿は、今見ると自明のことばかりなんだけれど、あの頃の自分はたしかにこれで苦労していて、だからこそ、それをメモとして残していた。今の自分には、それはもう不必要なものなんだけれど、それを削除するとたぶん、昔の自分は困っただろうし、この原稿が装丁している「今困っている人」も困るだろうから、そういうものは残すことにした。「昔の自分がこれを読んで理解できること」というのは、当初からの大切な制約要素だった。

骨は最後に入る

恐らくはプロジェクトの中盤から終盤、制約という型枠の中で、パン種が膨らむように発想が限界まで広がる頃になって、はじめてそこで、プロジェクトの骨格になる、明確な目標というものが投入される。

自分たちが作っているのは一体何なのか、作り始めはそれが分からないし、制約にぶち当たる頃になっても、やっぱりたぶん、しばしば分からない。目標は、「マネージャーやチームの気づき」という形で得られるのかもしれないし、あるいは自分のケースみたいに、「外からプロジェクトを眺めた誰かの一言」という形で、それが入るのかもしれない。

目標が見えて、プロジェクトにははじめて骨格が生まれて、骨格は今度は、膨らみきったあやふやなかたまりから、骨格に見合った身体を削り出す。目標に照らして、それが果たして必要なものなのか、プロジェクトの骨格という、評価の基準が生まれることで、はじめてたぶん、ものを作る人は、虚栄心とか、自信のなさが裏返った変なスタイルとか、あるいは努力賞みたいなものから自由になれて、プロジェクトは「前」を向く。

「最初から骨を作ればいいじゃないか」というのは、やっぱり何か違う気がする。それが仮にできたとして、「膨らむ」という工程が欠けてしまったプロダクトというのは、正しく完成したところで、それは何となくつまらないものになってしまうんだと思う。

進捗

いろいろあって、今のところはまだ、話は止まらず進んでいます。参考文献リスト、略語の解説、薬剤の表記等、細かいところを追加しながら、余分なところを削りながら、いろんな分野のエンジニアから貴重な示唆をいただきながら、原稿は少しだけ、完成に近づきつつあります。

上手くいくといいのですが。