高重圧環境で正しく振る舞う

プレッシャーの大きい状況で、普段どおりの振る舞いかたをするのに必要なもの。

若い患者さんを見るのは怖い

そもそも本当は、そういう「差別」みたいなのがあってはならないんだけれど、「怖い患者さん」と「そうでもない患者さん」というのは、どうしたって存在する。

たとえば97歳の、もう5年ぐらい寝たきりで、呼びかけたってもう3年ぐらい返事をしないような高齢の患者さんが紹介されて、その人がたとえば重症の肺炎であったとしても、診察するほうは、そんなに怖くない。高齢で、重症だったら、もちろん生命にかかわることだって十分あり得るんだけれど、やるべきことをやって、よしんば経過が良くなかったとしても、ご家族はたぶん、それなりに納得してくれるだろうから。

これがたとえば、30歳ぐらいの元気な人が、細菌性の扁桃腺炎なんかで食べられなくなって入院したりするのを見るのは、ものすごく怖い。若いし元気だからこそ、たぶん教科書どおりの治療をすれば、高い確率で勝手に元気になってくれるはずなんだけれど、こういう患者さんが、万が一にもそうならなかったら、もう言い訳できない。若くて、元気で、だからこそ、外したときの責任というものが極端に重くて、一見楽に治りそうなそうした患者さんを見る側は、恐らくは恐怖に震えてる。

自分だけじゃないと思う。

責任が見えると固くなる

「畳のヘリから外れず歩く」ことは、たぶんたいていの人が上手にできる。ところが同じ幅の平均台を、たとえば地上20mにおいたとして、畳のヘリと同じような気分で歩ける人は、滅多にいない。

それがどんな形であれ、「責任」が見えてしまうと固くなる。もちろん超高齢者であろうが、若い患者さんであろうが、責任はみんな同じで、正しいことをやっていれば、固くなる必要なんてないのかもだけれど、自分は未熟で、やっぱり怖い患者さんを見ると固くなる。これはもう、そういうものだから、認めるしかない。

漠然と「努力」を重ねることで、じゃあこういうプレッシャーに対する耐性がつくかといえば、無理だと思う。どれだけ手技が上手になろうが、どれだけ勉強を仕様が、無理なものは無理。万が一が怖い患者さんと対峙するのはやっぱり怖いし、固くなるし、緊張すると、間違えは増える。

自由に振る舞うための言語化

上手くいっているとき、たいていの人は「何となく」振る舞う。上手くいっているときには、些細な瑕疵は「結果オーライ」で容認されてしまうから、振る舞いにはある程度の幅が得られる。上手くいっている人は、だから自由に好きなように、「何となく」振る舞って、結果として上手くいく。教科書を何冊読んだところで、「何となく」は、変わらない。教科書に書いてあることは、たしかによくまとまっているのかもしれないけれど、それはその人の振る舞いを言語化したものとは違うから。

何となく上手くいく体験を重ねてきた人が、あるとき高重圧の環境に晒されると、「何となく」を忘れてしまう。研修医が離島に放り出されたときとか、しばしばこんな「何となくの忘却」を体験するんだけれど、その時に教科書を開いたところで、そこに書かれていることは、普段の自分とは全然違ったやりかただから、いきなりそれに従ったところで、上手くいくわけがない。

重圧の高いところで上手くやるためには、だから動作から「何となく」を追放する、上手くいっているときの自分の動作を言語化ないといけない。

上手くいっているその状況で、どうして自分は上手くいっているのか、それをまずは自分なりに言語化して、今度は言語化されたその手続きを実際に行ってみて、言語化が正しく行われているのかどうかを検証する。そこまでやって、たぶんはじめて、「役立つ努力の1サイクル」というものが完結する。

みんなが手順書を書くといい

高重圧環境への耐性を身につけるには、だから自分の手順書を、みんなが自分で書くのがいいんだと思う。

言語化というのは難しくて、名人でも時々失敗する。自分で手順をまとめたものなのに、それに従うと、下手になる。ゴルフの帝王ジャックニクラウスが昔、自分のやりかたをゴルフの教本にまとめた翌年は、やっぱり全然勝てなかったらしい。

言語化した手順に従うと、何よりも不自由だし、「成績」みたいなものは、何となくやってたときに比べて落ちる。落ちたその時、また「何となく」に戻せばすぐに元に戻るんだけれど、それをやってしまうと、もしかしたらその人は成長できない。言語化した手順と、「何となく」の手順とを比較、検証することを重ねて、両者の解離が減っていくことが、たぶんベテランになるということだから。

何となくやっている手順というのはすぐにぶれるし、いろんなものに引きずられる。

研修医を相手に、たとえば「丁寧に診察することが一番大切で、検査なんてしなくても、病気は診断できるんだよ」なんへ自慢げに語った直後、緊急の対応が必要な患者さんが搬送されて、その人に必要な手順と、研修医に語った手順と、それは全然関係ないはずなのに、自分で作った物語から、たいていの人は自由になれない。こういうのを体験して、自分の「手順書」を改良して、「美談」で行ける状況と、それを放り出さないといけない状況とを区別できるようにしておけば、次からは切り替えられる。

何となくでなく、自らを納得させて、そう振る舞わせるための理論だとか、手順みたいなものを自分で書く、それを検証して、改良して、本当に使えるようにしておくということは、重圧から、文脈からその人が自由でいられるために、たぶん大切なことなんだと思う。