事象が社会と接続される

秋葉原の無差別殺人事件を見ていて思ったこと。

青年が「巖頭之感」という遺書を残して華厳の滝に飛び込んだ、昔の事件を思い出した。 個人と社会とを切断することに失敗して、事件が社会に接続されてしまった例として。

行動規範が一人歩きする

その人が亡くなった理由がよく分からなくて、何だか哲学的な遺書が残って、 メディアだとか、権威だとか、いろんな人達が、遺書の解釈だとか、評価だとかを 行った結果、単なる自殺は社会に接続されて、自殺という行為それ自体が、 新しい行動規範を生み出してしまった。

悩める青年は、自殺という手段を通じて、自らの悩みを世に問うべきだ」みたいな ロールモデルが一人歩きした結果、そもそも死ななくてもいい人が、「死ぬべき」なんて 社会の気分を受け入れて、ずいぶんたくさん亡くなったのだと思う。

最近になって、あの人が自殺したのは、本当は恋煩いみたいな個人的な悩みが原因であったなんて 結論が出たけれど、当時の政府は、それがたとえ欺瞞情報であったとしても、「あれは個人的な事件である」と 早いうちから宣言を行って、遺書を残して自殺した学生を、社会から切断するべきだった。

要人を狙っても社会は変わらない

少し前までのテロルというのは、特別な集団が、社会の特別な人達に対して行使する暴力だった。

よど号」みたいな政治テロだとか、サッチャー政権時代に要人を狙った爆弾テロだとか。 事件は大きく報道されたし、巻き込まれて犠牲になったかたも多かったのだろうけれど、 大事件であった割には、社会はあんまり変わらなかった。

テロルというのは、社会を一度崩壊させて、再起動がかかるときに自らの考えかたを そこに織り込むのが基本。まずは社会そのものを壊さないと、暴力の効果が出ない。

少し前までの武装テロというものは、「特別な人達が、特別な人を狙った事件」であったから、 事件が起きても、それは速やかに社会から切断されてしまった。

社会を揺さぶる手段として暴力を考えるときには、暴力それ自体の大きさは、たぶんそんなに重要じゃない。 むしろ大切なのは社会との「接続度」であって、社会との接続が為されていない暴力には、 社会を揺さぶる力は発生しない。

政治家であったり、経済界の要人みたいな人達は、社会の中では特別な人間。 明確な武装闘争の思想を打ち出したテロリストというのも、また特別な人達だから、 裏を返せばたぶん、両方とも、社会との切断が容易な人物でもある。

特別な連中が、社会の特別な人達に対して暴力を行使しても、市民はそれを見守るだけで、 「観客席」から動く必要を感じない。「あの人達は特別」と思われたその時点で、武装闘争は 社会から切断されていて、切断された暴力は、もはや社会を揺さぶる手段としての意味を失っていた。

テロルの手法は、だから「改良」されて、今は市民を狙った無差別テロが主流になったし、 テロルを行う人達もまた、昨日までは日常生活を営んでいた「一般市民」であって、 政府の無策で生活ができなくなったから、不満を抱えていても、政府が何もしてくれないからこそ 暴力が発露する以外の選択枝が無くなったのだと宣伝されるようになった。

アメリカなんかは、テロルを行う人達を、あたかも怪物の集団であるかのように広報するし、 イラク自爆テロを行う人達なんかは、テロ直前のビデオメッセージなんかを通じて、 自分たちの「普通さ」を強調しようとする。

体制側は、テロリストを社会から切断しようとして、テロリストの側は、自らを社会と接続しようとする。 今の「テロとの戦い」というのは、そういうことなんだと思う。

接続しようとする人達

事実が出てくるのはこれからなんだろうけれど、秋葉原の無差別殺人は、 たぶんあれはテロルではないのに、現状は「成功したテロル」、 「虐げられた普通の人」が、市民に暴力を行使して、社会が暴力で揺さぶられる、 それこそ武装テロをやってたような人が見たら、「こうしたかった」お手本みたいな状況になっている。

事件が社会に勝手に接続されて、政府だとか、企業だとか、様々な人達が、 個人的な暴力に対して、社会として反応している。これはよくないことだと思う。

社会の状況がどうであれ、「殺人を予防する」という立場からは、 政府はあれを単なる殺人事件として処理しなくてはならなかったし、 派遣労働の規制とか、労働者の保護だとか、たとえそれが緊急に必要なことであったとしても、 それは事件とは全く無関係の政治の問題として行われるべきだった。

メディアは今回、犯人の異常さだとか、特別さみたいなものを強調しないで、 むしろ犯人が追い詰められた社会的な状況だとか、派遣労働者の置かれた状況だとか、 事件を積極的に社会と接続しようとしていた。

ねつ造上等の、スキャンダル中心主義的な報道姿勢に批判的な人が増えたからなのかもしれないけれど、 もしかしたら、マスコミのそんなスキャンダラスな個人を強調する報道姿勢は、社会の安定装置として、 事件を社会から切り離す道具として、今まではそれなりに機能していたのかもしれない。

ロールモデルは伝播する

体験というものは、もちろんその人の個人的なものだけれど、 体験の解釈というものは、しばしば容易に他者の浸食を受けてしまう。 星の見えかたなんかは、本来はみんなバラバラだっていいわけだけれど、 星座の知識を得た人は、ランダムな星の配列が、もはや意味を持った星座にしか見えなく なって、他の選択枝を失ってしまう。

「巖頭之感」が社会と接続されて、漠然とした悩みと、自殺という行動とがロールモデルとして 一人歩きしたように、事件を社会背景から解釈しようとする試みそれ自体が、個人的な暴力を、 積極的に社会に接続して、もしかしたら新たなロールモデルを生む。

事象の解釈は、あくまでも個人的なものだから、それが規制される理由なんて無いけれど、 少なくとも「犠牲者がこれ以上出てほしくない」と思う人とか、「体制」側の、政府や企業の人達は、 あれを個人的な、特別な事件として、社会から切断して考えないといけないのだと思う。