能力のこと

「激動中国」という番組で、中国の医療が特集されていた。片目を失明してしまった少年が、 網膜のレーザー照射を受けるために700km離れた北京まで出かける必要があって、それには ものすごいお金がかかって、一家が経済的に傾くお話。

番組を作った人達は、高騰する医療費に批判的な、市場化が暴走した医療を問題視する 立ち位置だったけれど、取材を受けていた一家に限れば、問題はむしろ他にあるように見えた。

主人公の子供さんが受けていたのは、たぶんごくありきたりな治療。報道されていたのが全てだったら、 わざわざ北京まで出かけた先の「名医」は、必ずしもすごい技量を発揮していたわけではないし、 子供が受けていた、網膜のレーザー照射にしても、日本だったらどこの市中病院にでも普通においてあるような機械。

中国の医療レベルは決して低くなくて、トップクラスは普通に英語をしゃべれるし、医療機器なんかも、 法律の縛りが穏やかな分、日本なんかよりもよっぽど速く、最新の機器が導入されてたりする。 網膜のレーザー照射なんて、自分たちが研修医の頃から普通に行われていた治療だから、 あの一家は恐らくは、わざわざ北京の一流病院に出向くまでもなく、もう少し近場で、 同じ治療を安価に受けることができたはず。

たぶんあのご家族が対峙してたのは、医療の問題と言うよりは、むしろ情報の問題。 あの人達は、適切な情報を手に入れる手段を持っていなかったから、たぶんもっとも「高級な」 治療手段を選択せざるを得なかった。

あのご家族にもっと経済力があれば、あるいはもっと適切な情報を探せれば、あるいは詳しい人に知りあいが いれば、漠然と「能力」を持ってさえいれば、結果はずいぶん違ったのだと思う。

生きるためのコスト

「生かす」の単位がそもそも定義できないんだけれど、生活力のない人を「生かす」ためのコストというのは、 それを持っている人に比べて、圧倒的に高いような気がしている。

何もできなくて生きていけない人というのが、いる。身体的な病気はないのに、 とにかく何もできない人。仕事もしてないし、親類縁者は縁を切ってて、 役所がお金を渡しても、全部アルコールに変わってしまって、ご飯を買うお金を取っておくとか、 そんな発想がそもそも無くて、肝臓壊して餓死しかかって、ある日救急車で運ばれてくるような人。

もちろん生活保護になるんだけれど、お金を渡すだけでは同じことの繰り返しで、田舎だから住む家は あったりするんだけれど、見守るための民生委員とか、介護人だとか後見人の確保だとか、 退院に持って行くためには、すごい人手がかかる。

自宅に帰っても同じこと繰り返して、緊急避難的に特養に入れて、結局そこから先の展望無くて、 そんな人はたいてい、そのまんま一生そこにいる。食事の世話から風呂から着替えから、そうなると 全部介護の人がやってくれるし、あらゆる事務手続き、書類の世話とか財産の管理は、 今度は全部、市のソーシャルワーカーがやってくれる。

もちろん毎日のナース巡視はあるし、体温と血圧ぐらいは毎日測って、異常があったら病院に来る。 送迎はもちろん施設の車で、病院にはちゃんと、施設の人が付き添ってくる。こういう人は、ここまでやって、 やっと生きられる。

ただ「生きる」だけのコストが、こういう人達は、どういうわけだかすごく高い。

絶対的な財産の量で言ったら、企業経営をしているような富裕層のほうがもちろん多いはずだけれど、 「生きること」に必要なコストは、生きていく能力のある、財産を持った人というのは、 あるいはとても安価なのだと思う。

自分の居場所から見える「生活できない人」というのは、人口20万人圏内のうちで、100人程度。 たぶん保護なんかが行き届いてない人はもっと多い。自分は内科だから、外科だとか精神科だとか、 他科から見た風景は、もっと異なってくるのだとは思う。

「楽しむ」能力

医局の人達と、ご飯を食べに行ったりする。同じお金を支払って、同じもの食べて、 条件を一緒にしても、感覚する「おいしさ」みたいなものは、やっぱりその人が持つ「能力」に 応じて、ずいぶん異なるような気がする。

上手な人は、楽しむことが本当に上手。いい料理屋を知っているとか、いいワインが選べるとか そういうのではなくて、どこに行っても何だか気負わない、場を楽しむのが上手な人。 それができる人が一人いると、みんなでご飯を食べてもおいしくて、まわりもまた楽しめる。

「できない」人ばっかりだと、どんなに高級なところで外食しても、何だかみんな見栄張って、 料理見ないで仕事の話し始めたりして、ご飯がもったいない。「見られる自分」みたいな、 余計なことばっかりに意識が行って、何だか楽しめない。自分も含めた「できない」連中は、 きっとみんなそのこと分かってるんだけれど、楽しみかたが分からなくて、楽しもうとするんだけれど、 やっぱり「楽しめる」人が一緒でないと、楽しめない。

料理食べて、「おいしいね」なんてほんの一言、気負わないで言うだけの能力なのに、 それが何だか決定的な能力差として効いてくる状況というのがしばしばあって、 できる人はそれが当たり前のように身についてるし、できない人は、そうなりたいと思っても、 やっぱりどうやっていいのか分からない。

たとえば「自分で料理を作って、それを日記にして公開する」なんて試験をすると、この能力が 定量できるような気がする。

いろんな料理サイトがある。見た目がきれいだったり、いろんな材料を使ってたり、 「一生懸命さ」みたいなものは、どこ見ても伝わってくる。「自分も作りたいな」なんて思う文章は 案外少なくて、あんまりおいしそうでうらやましく思えるような文章は、もっと少ない。 そういうところに限って、作ってるのはただ豆腐ゆでただけだったり、魚焼いただけだったり、 もっと手をかけて、もっとおいしそうな写真出してるサイトなんていくらでもあるのに、 「うらやましいな」なんて指くわえて眺める料理は、かけた手間とは無関係だったりする。

お金の使いかた、同じ金額のお金を使って、そこから得られる楽しみの量みたいなものは、 やっぱり「能力」みたいなもので相当に左右されるのだと思う。

自力で生活するだけの能力に欠けていて、なし崩しに生活保護になるような人は、 それでも生活していけるだけの収入と、生活に困らない程度の住居を得られるのに、 お金は結局全てお酒に変わって、娯楽なんてせいぜいパチンコぐらい。

「やることがないんだ。すごく辛いんだ」とか言われたことがある。本心なのだと思う。

平等という前提が格差を生む

持っている能力と、能力を生かすための環境要素と、パラメーターは複数あるけれど、 ベクトルが幸福な一致をみた状態においてもなお、その人が持つ「能力」の絶対値みたいなものには、 やっぱり厳とした差が出てしまう。

「能力差」みたいなものは、「あるのだ」と積極的に認めるところから議論をはじめないと、 何だかいびつなことになるし、問題は解決しない。平等だとか正義だとか格差だとか、 そもそもはたぶん、能力の平等なんていう、間違った考えかたを前提に、 世の中を見てしまったがために生じた誤謬だと思う。

「能力の平等」が、揺るぎない前提になってしまっていると、本来は能力差でしかないものが「勝ち負け」を生んでしまう。 そもそも前提が間違っているところに生まれた勝ち負けを正当化するために、欺瞞に満ちた、 本来は必要ないはずの、正義というあやふやな価値軸が後付けされた。

「人間は平等」という立ち位置は、市場原理主義みたいな人も、人類皆兄弟の人も、みんなそれを前提にして、 自らの考えかたを補強するための武器にしている。市場の人達は、だから「機会均等が平等だ」なんて言うし、 皆兄弟の人は、平等なのに結果が不平等なんておかしいなんて言う。行ってること全然違うのに、どちらも平等で、 どちらも正義で、反駁が難しい。

人類皆兄弟の人達は、能力平等、機会平等なのに結果が不平等な現状を見たら、 まずは「能力平等」の前提を疑ったっていいはずなのに、それをしない。 能力の不平等を前提にするならば、政治の不作為を矛盾なく叩けるのに。

市場原理主義の人達は、「能力平等」が誰からも反対されない状況を利用できるからこそ、 「機会の平等」を矛盾無く主張する。派遣労働のやりかたとか、格差社会一般とか、 能力の不平等性が前提になってたら、もっと救済策取られてもいいと思うけれど、 能力は平等なことになってるから、「それはこれから能力発揮する人達に失礼だ」なんて、 本心からそう叫べたりする。

「椅子取りゲーム」みたいな自由競争ゲームは、勝ち負けを生むけれど、みんなの機会は均等。 負けた子供が先生に抗議しても、「君の努力が足りない」なんて突っぱねたって大丈夫。ところが足の悪い子供が 混じってたり、目が見えない子供が交じってるクラスで「椅子取りゲーム」を企画したら、 きっとその教師は、世界中から見識問われて、きっと叩かれる。

持って生まれた能力差を呑み込むところから議論はじめたほうが、物事がシンプルに、 世の中あるがままに議論ができるような気がするんだけれど、ここから先は分からない。

そもそも能力の異なった、不均一な集団を相手に「機会の平等」を説く欺瞞というものは、 能力の不平等性をみんなが受け入れた時点で、その効果を失うはずだけれど、 その代わり、ならば能力が不均一な人達を相手に、どんなルールを敷くのが一番「正しい」のか、 そもそも正しさという価値軸が必要なくなったはずの不均一な集団にどうして正しさが必要なのか、 このへんになると、もう想像力が届かない。

誰か考えて。。