この本は何でないのか

何人かで共同作業を行うときには、「ない」で目標を定義しておくと、喧嘩を回避しつつ、生産的な意見を出しやすかったんだと思った。

自分が今作っている原稿について。

「眼」を調達するのは難しい

今自分が作っているのは、症状を見たらいきなり検査を組んで、結果が出る前に治療をはじめるやりかた。病名診断があやふやな状態から、それでも前に進むためのやりかた。こういう状況は決して珍しくはないだろうし、これを便利に使ってくれる人も、どこかにはきっといるだろうと思うんだけれど、作るのはけっこう難しい。

これが病名別の教科書ならば、その病名に行き当たらないかぎりは問題は表面化しない。よしんばどこかの病名に、間違った記載があったとしても、それを訂正できたなら、問題はそれ以上大きくならない。自分が作っているやりかたは、そういう意味では問題山積みで、判断分岐のどこかに「間違い」があったとして、その間違いのせいで、状況が明後日の方向に迷走してしまう可能性が、今の段階でないとは言えない。

作っている側からは、しばしば「穴」が見つけられない。

鏡がないと、自分の眉間は見えない。「お前眉間に穴空いてるぞ。死んでるんじゃないの?」なんて、これが原稿だと、誰かから突っ込んでもらえないかぎり、自分の原稿が果たして「生きて」いるのか、「死んで」いるのか、実はそれが分からない。たとえ「五体満足」であったとしても、眉間に穴の開いた人体は、原稿は、やっぱり穴一つで死んでしまう。

Web でさまざまなアプリケーションが公開されて、脆弱性が片端から突っ込まれては対策されていく。あのやりかたを、書籍でできたらすばらしいと思うんだけれど、難しい。書いて公開して、ほめてもらえるとうれしいんだけれど、突っ込んでくれる人は少ない。「お前の書いたものはクソだ」と思う人がいたとして、そういう人は「クソだ」と教えてくれるその前に、サイトから立ち去ってしまうから、自分の側から観測できない。

「ネットでみんなで」という試みは、もう8年ぐらいこんなことを試みていて、HTML だとかPDF、掲示板、blog やWikiTwitter までさまざまなメディアを試したんだけれど、未だに「みんなで」が回らない。どこかで上手くいっているケースがあるのかもだけれど、「今のところ自分では無理」というのが、今年の結論。来年以降、このへんを何とかしたい。

文脈を呑み込むコスト

誤字脱字の訂正は本当にありがたい。ほめてもらうのは素直にうれしい。

「ツッコミ」というのは、「お前の考えかたでこうすると、患者さん死ぬぞ」という意見なんだけれど、こういうツッコミを行うためには、最低限、自分が書いた原稿を読んでくれて、あの文脈を共有して、その人の頭の中で、自分が書いた診断チャートを走らせてみないといけない。だからツッコミのコストというのは大きくて、見知らぬ誰かの文章に、そこまでのコストを割いてくれる人は、やっぱりそんなに多くない。

誰にでも読める、どこからでも読めるという、自然言語の長所というのは、何かの原稿を改良していく上では、むしろ弱点なのかもしれない。

これがプログラム言語なら、公開されたスクリプトを自分のPCで走らせるだけで、まずそれが使い物になるのかどうかが分かる。プログラム言語というものは、裏を返せば「走らせないと分からない」から、作者とユーザーと、望ましい関係が成立する可能性が高い。

物理や数学よりも、たぶん生物学のほうが突っ込みやすい。さらに経済学や、社会学や、たぶんもっと大変なのが教育学で、ああいうのは何というか、「誰でもどこからでも突っ込めそうに思える」からこそ、たぶん外野からの、「文脈無視のツッコミ」に晒される。中の人はそれに応対するのが大変なんだろうなと思う。

今はだから、昔お世話になった上の先生がたに、半ば無理矢理原稿の束を押しつけて、レビューをお願いしている。自分の「師匠」だった先生がたは、文脈どころか源流だから、お願いをして、たしかに望んだツッコミをいただける確率が高いのだけれど、みんな忙しい人たちだから、そう何度も頼めない。

Wikipedia みたいなやりかたには制限が必要

原稿を、インターネットでもっとオープンに作ってみたり、あるいは複数の著者同士で話しあいながら原稿を作るやりかたは、文脈共有の困難さという問題にぶち当たる。

それが若い人に向けた原稿ならば、若手が書いた文章は、たぶん若手の役に立つ。著者グループの中にベテランがいたとして、ベテランが若手の穴を埋めてくれたら、それは強力なものになる。ところが文脈は衝突する。ベテランが、たとえば若手の原稿を直す作業を通じて、その若手とか、あるいは対象にしている読者を「教育」してあげようなんて考えたのなら、たぶん原稿が迷走する。

えらい人の意見は無下にできないし、かといって、「教育」と「実用」とはしばしば両立が難しくて、複数著者の教科書というのは、詳しいのに今ひとつ使いにくい、どう「実用」すればいいのか、編集の方針が定まらないものになってしまう。

オープンソースの人たち、具体的にはX Window System とか、あるいはWikipedia を作っている人たちは、「これが何でないのか」という要件定義を行っている。

背理法みたいだけれど、これだと衝突を回避しやすい。「これは何であるのか」を目標にするやりかた、たとえば「若手の役に立つ臨床教科書」みたいなものを目標にしてしまうと、それぞれの著者ごとに「役に立つ」の定義がずれて、喧嘩の種になってしまう気がする。

この本は何でないのか

自分の原稿は著者1人だから、そもそも「何でないのか」宣言はいらないのかもだけれど、「ない」を重ねて定義を行うやりかたというのは、将来的にこんな原稿を何人かで改良する機会が得られたら、きっと役に立つんじゃないかと思う。以下素案。

  • この本は論文や教科書ではありません 正しいと保証された方法を提供するものではありません。医学的に正しい方法よりも、「こういう方法があってもいいのでは」という、筆者の意見を提供するよう心がけました。「と思う」という言葉を多用し、データよりも、体験に基づいた独りよがりな意見を優先しています
  • この本は診療ガイドラインではありません もちろん内容は成書やガイドラインを下敷きにしていますが、筆者が今までやってきたこと、あるいは直感に照らして「こうだろう」という記載を入れています。違和感を覚えたときには指導医の先生と相談して下さい。間違いを見つけたならば、ぜひとも教えて下さい
  • この本は研修医マニュアルではありません 通読することで研修の役に立ったり、「良き臨床医」になれるような本ではありません。問題に対峙したときに、その状況を抜け出すためのヒントを提供できるような本でありたいと思っています
  • この本は病歴や身体所見の有用性を否定しません 病歴聴取や身体所見の取りかたに優れた医師は、この本よりも、何倍も早く解答にたどり着きます。ただしそうした方法が通用しない状況に陥ったなら、この本のやりかたが役に立つかもしれません
  • この本は個人による問題解決を目指していません たとえば腹痛の鑑別疾患には胃癌や肝臓癌は入っていません。下血の鑑別疾患には大腸癌が含まれていません。CTスキャンを見たベテラン外科医や、あるいは大腸内視鏡を行った消化器科の先生が、こうした疾患を診断してくれます。この本は最初から、さまざまな専門家の援助を前提にしています
  • この本は既知の問題に対する理解を提供しません 患者さんを診察した結果、症状の原因となっている疾患名が分かっているのならば、この本を開いても、それ以上提供できるものはありません。原因が分からないときには、この本は何かのヒントを提供できるかもしれません
  • この本はあらゆるニーズに答えるものではありません 「内科全般」を対象にしてはいますが、扱っている疾患はごく一部です。疾患の出現頻度に基づいたやりかたではなく、その症状から想定される最悪の状況に対応したやりかたを提案します

「前書き」に相当する場所に、最終的にこんな宣言を載っける予定。意見をいただければ幸いです。。