笑いの効用

2ちゃんねるもそうだし、そもそもインターネットという場所自体、昔はたしか、普段言えないような本音が話せる場所として紹介されていた。

ネットとリアルの境界は薄くなった。普段から携帯電話を使いこなしているような人たちは、たぶんTwitter ぐらいで喜んでる自分みたいなのよりもはるかに先を行っていて、ネット世間が実世界にはみ出したお話が、前より増えてきてる気がする。

この国には昔から、建前とか常識とかいうものがあった。常識というものは、サランラップみたいに薄くて透明で、そのくせ大人の体重を支えるぐらいに丈夫なものだったけれど、ネット世間と実世界とを隔てていた薄膜が、ここに来てついに破れるんじゃないかと思う。

常識というものは、一度破れるとあっという間に書き換えられる。

風向きは一瞬で大きく変わる。「常識知らず」の人間は、ごね得競争で圧倒的に得をするから、「常識なんてないんだ」が新しい常識になったそのとたん、昔の常識を引きずる側は、少数派に転落してしまう。

昔は心マが常識だった

自分が2年目ぐらいの頃までは、たとえば97歳で寝たきりの人が食べられなくて亡くなりそうになったら、人工呼吸器と心臓マッサージを行うことが、常識だった。呼吸器を患者さんに着けないとか、心臓マッサージをしないとか、そういう方針の病院は珍しかったし、それは常識を外れたことだった。

全国どこの病院でも、どんな患者さんであって、最低30分とか1時間とか心臓マッサージして、心臓に針を突き刺して薬を入れて、それが常識だった。自分が研修を受けた病院では、「うちではそういうことはしない方針なんだ」なんて、「しない」ことに胸を張っていた。

「しない」はそのうち支配的になった。「北米流の医療では、そもそもこういう不必要なことはしないのだ」なんて。今はたぶん、何年も寝たきりだった高齢の患者さんが亡くなったとして、人工呼吸器付けたり心臓マッサージしたり、できること全部やり続けたら、ご家族の側から止められる。

常識の書き換えは事件にならないし語られない

大学に入局した頃は、まだ「する」文化が残っていたけれど、今はもう、できることを、どんな患者さんにでも全部やる方針の病院は少ないと思う。たぶん数年ぐらいの短い期間で、世の中の価値観、生死にかかわるけっこう大事な決断が、全国レベルで一変したはずなんだけれど、あんまり大きく騒がれなかった。

常識というものは、崩れるときにはあっけなく崩れて、崩れたことそれ自体は、案外それほど騒がれない。なにしろそれは常識だから。

2ちゃんねるの常識が社会を書き換えたとして、雑踏を歩く普通の人が、「あの事件は○○国の陰謀だよね」とか、当たり前のように会話する日というのが来るんだとして、それは比較的急激にそうなって、そうなったあと、そのこと自体は、事件にもならないし、そもそもそれが「変化」であるとは認識されない。

常識という器は、中身がどう変化しようが常識であり続ける。多くの人はたぶん、器の形が変わらなかったら、中身が何に変わろうが、あんまり気にしない。

「肺炎を考えるフォーラム」みたいなのが8年ぐらい昔にあって、たしか「チエナムで治癒した肺炎の症例」が提示されてた。その場の空気は「そこは当然チエナムですね」なんて結論で、虎ノ門の先生だったか、「そこはビクシリン大量でも良かったのでは?」なんて質問をした。今だとこれは正しい考えかたなんだけれど、パネリストの先生は、なんだか場違いなところに迷い込んできたかわいそうな人を見るような目線で一瞥して、「ビクシリン?」なんて首をかしげてた。

今どこかで同じようなイベントがあったとして、きっと逆の質問が出て、パネリストの先生は、今度は「チエナム?」なんて首をかしげる。だれもそれを不思議に思わない。そういうものなんだと思う。

相転移は喜劇として記録される

「常識の書き換え」という現象を引き起こすのに必要なエネルギーは、案外少ないのだろうと思う。沸騰する水が、沸騰寸前までは大きな変化が観測できないように、変化を起こすのに必要なのは「最後の一押し」であって、蓄積した何かが沸騰寸前になっているなら、わずかな力で大きな変化が作り出される。

相転移を引き起こす側に回れたのならば、革命家になれる。相転移に乗り遅れた人は、悲劇でなく、喜劇の主人公にされる。時代に遅れた悲劇が成り立つには、「良かった昔」が記録されているのが前提だけれど、常識の相転移現象は、人々に忘却を強要する。転移に乗り遅れた人は、そんな時代があったことさえ忘れられて、「常識外れ」の価値を叫ぶ、困った人扱いされる。

価値観の変化、常識の相転移現象というのはたぶんたびたび起きていて、歴史というのはやっぱり、悲劇じゃなくて、それは喜劇の積み重ねとして、後生に記録されるものなんだろうと思う。

笑いには力がある

たいていの人はたぶん、叩かれることには耐えられるけれど、笑われることには耐えられない。相転移という現象は、価値が根こそぎ書き換わって、乗り遅れたら笑われる。相転移はだから、「笑われる側に自分が回る」という恐怖で駆動されて、世の中の価値を一気に書き換える。

価値の書き換えが、怒りや抑圧、暴力といった形で行われると、人は集まるし、固まるし、頑なになる。説得というやりかたもまた、それを受け入れることは「敗北」だから、集団になった人に何かを説いても、思ったほどの効果は期待できない。笑いの威力は協力で、みんな笑われる側には回りたくないから、笑いの対象となった誰かの価値は、まわりの人から一斉に切り離されて、人々は「笑う側」に回ろうとする。集団は一瞬で瓦解して、価値は根こそぎ書き換わって、昔のことは忘れられる。

「誰かを笑う」という行為は、空気を冷ましていく。いろんな価値が笑われて、いろんな人が笑われて、政治をする人も笑いものになって、今はもう、次に何を笑えばいいのか、何を笑えば、自分が笑われる側に回らなくて済むのか、みんな戦々恐々として、凍りついてる。大きな変化が起きる直前は、あるいはいつもそうなんだろうと思う。浮ついた空気でありながら、それは決してあたたかいものではなくて、沸騰寸前というよりも、過冷却のイメージ。

「笑われた人」が書き換える

たぶん「笑いものを作ることで為された変化」と、「笑われた人が為しとげた変化」と、両方のパターンがあるのだけれど、世の中の価値を根こそぎ書き換える、価値の相転移を引き起こすのは、たぶん「笑われた人」のもたらす変化なんだと思う。

世の中には、「誰かを笑う人」と「笑われる側から逃げる人」、さらに「あえて笑いものになる人」というのがいて、みんな意識的にせよ無意識にせよ、社会にたまった笑いというエネルギーを、何とか自分の側に引き寄せようとあがいている。「こうしないと笑われますよ」って言うのがメディア、あえて笑われてみせることで何かを守るのが経営者だけれど、気がついたら笑われていて、笑われても気にせずそれを続ける人が、もしかしたら常識を書き換える。

小学校の頃、同級生の後ろに回り込んで、頭からビニール袋をかぶせて、みんなで頭を殴る遊びが流行した。叩かれて笑われるのは嫌だったから、みんなお昼休みになると壁を背にして輪になって、警戒して動けなかった。あのときには担任の先生が介入して、教室は元に戻ったんだけれど、あの状況でもしも、まわりを気にせず、教室の真ん中で弁当を広げる子供がいたなら、その子は教室の空気を一変させて、みんな壁を背にして立っていたことなんてすぐに忘れて、最初にそうしたその子のこともまた忘れられて、教室の空気は書き換わったんだろうと思う。

過冷却した社会は、笑われた誰かを中心に結晶化して、新しい秩序が生み出される。

そういう「笑いの種」みたいな何かを提供できたらいいなと思う。