メディアにだって生活がある
「スピンドクター “モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術」という本を読んだ。
「プロパガンダ」みたいな心理操作の技法を期待して読んだんだけれど、印象操作それ自体よりも、 むしろ「マスコミの人たちもご飯食べないといけないんだな」なんて、変なところに感心した。
怪物はいなかった
「報道する側もご飯を食べないといけない」という文脈で読み解くと、「陰謀」に見えるものが、案外そうでもなく思えてきた。
飛ばし記事だとか、スクープ争いみたいな印象とは逆に、報道機関というものは、「怪しい」記事は書けないんだという。
記事を書くにも、それを雑誌に載せて流通させるのにもお金がかかるし、出版社はお金を稼がないと続けられない。 それがどれだけ衝撃的な記事であったところで、「裏」が取りにくい、相手から訴えられたら言い訳のできないような記事だったなら、 訴えられた時点で「赤字」になってしまう。こういうのはリスクが高すぎて、報道できないんだという。
「ある記事を潰したい」という意図を誰かが持ったとして、だから「それを記事にするな」と圧力をかけるのは悪手であって、 むしろ「その記事のソースは怪しいみたいだよ」、と話を持ちかけると、メディアの人たちも、スクープを前に考え込んでしまう。 「スピンドクター」という仕事は、圧力よりも、むしろこういうやりかたをするんだと。
「誰も得しない」スクープは報道されない
たとえばこれから売り出す芸能人のスキャンダルは、「誰も得をしない」という理由で、しばしば潰れるのだという。
どこか大きなスポンサーがついて、広告にお金をかけて、まさにこれから売りださんとしている矢先に、 どこかの週刊誌がとんでもないスキャンダルを見つけてきたところで、流せない。 それを報道すれば、あるいは「雑誌がちょっとだけ売れる」程度の効果が見込めるけれど、 その芸能人にすごいお金をつぎ込んできた広告主のダメージは計り知れない。
スクープをつかんだ雑誌がちょっと得することと、広告というもので暮らしている業界全体が受けるダメージと、 天秤が「業界」側に傾くことは珍しくなくて、大きくなりすぎた芸能人のスキャンダルというのは、 「それを報道しても誰の得にもならない」という理由で、表に出ることはないのだと。
お金はやっぱり大切
亡くなった三浦和義氏は、「獄中のスピンドクター」だったんだという。
あの人は監獄の中で雑誌を購読していて、自分に関する記事を読んでは、片っ端から名誉毀損の訴訟を行った。
訴訟の勝利を重ねていく中で、三浦氏には「こういう書きかたなら、訴訟でこのぐらい勝てる」というノウハウが蓄積できて、 メディアはもう、三浦氏に頭が上がらなくなってしまったんだという。
訴訟というのは地味に有効で、数千万円オーダーの大規模な訴訟でなくても、 メディアの側が一定金額以上「敗北」したら、記事としては赤字になってしまう。 赤字が続けば雑誌は潰れるし、「戦った」ところで、全部訴訟になって返ってきたら、編集部は疲弊する。
訴訟の多い人からは、だから報道機関は離れていく。政治家の人たちなんかも、ちょっとした醜聞を「有名税」として 受け流す人と、全ての報道に、きっちりと訴訟で帳尻を合わせてくる人とがいて、 「真っ黒だけれど訴訟の多い人」は、だから報道されないままに黒くなって、伝説の黒幕みたいになるんだという。
「つまらない」という武器
メディア相手の謝罪会見、みんなが並んで頭を下げるあのやりかたは、リスクコミュニケーションとしては悪手なんだけれど、 「スピンドクター」としては、むしろ「あれこそが有効」なんだという。
あの風景はもはや当たり前で、謝罪会見をどれだけ流したところで「つまらない」からお金にならない。 「つまらない」ニュースは、それ以上深く突っ込んだところで、もはやそのニュースからはお金が生まれる余地がないから、 「頭を下げる」側の目的は、それだけで案外達成できるんだという。
群がる記者を相手に、軽妙に応対してみせた麻生総理は、もしかしたら「メディアとの対応が恐ろしく下手くそ」であったのかな、と思う。 あのやりとりは「面白かった」からこそ、メディアはこぞって報道して、記者はいつも「負ける」側でいたから、 裏を返せば総理を叩く大義が生まれた。
鳩山総理の話はつまらないし、いつ見てもグダグダで、最近はなおさらグダグダなんだけれど、 昔からグダグダだった人が、今さらもっとグダグダになったところで、それをどう叩いてみせたところで、 面白い絵を作るのは難しい。
「民主党はひどいことをたくさんしているのに報道されない」なんて、ネット世間ではみんな怒っているけれど、 その理由はたぶん、「鳩山総理はつまらない」ということに尽きるんだと思う。グダグダを叩いても面白くないし、 もしかしたら政治の無能が報道されることは、「投票した視聴者」にとっても面白くないことであって、 これは「誰も得しない状況」に相当するから。
「生活している他人」への目線
「みんなお金がないと食べていけない」という、ある意味ごくごく当たり前のことを理解していること、 相手がどうやって食べているのか、その人が所属している業界の構造を見抜けることが、 スピンドクターが「ドクター」として、特別な存在でいられる理由なんだと思う。
出版社の人たちと仕事めいたものをさせていただいて、出版というものもまた、 「初対面の社会人に出費とリスクとを強要する」行為であることに気がついて、 商品を作るということは、これほどまでにおっかないものであったのかと、 自分はそういうのを、もっとずっと甘いものだと考えてた。 自分の業界なら、「お金を意識しないとね」なんてうそぶいてたくせに、 業界をまたいだら、「いいもの書けば売れるんだ」なんて。
たぶんたいていの人が、「いいもの」幻想にとらわれるのだと思う。 ところがどこの業界であれ、何かを生み出すためには、当たり前のようにお金とリスクが必要で、 それはしばしば、「いいもの」を夢見ている人からは見えなかったり、過小に評価されていたりする。
いろんな業界に「生活している誰か」を見出して、その人が暮らしていくためには何が必要で、 「それを行って得られるもの」と、「それを行うことで失うもの」とを、その人はどうやってバランスを取っているのか、 スピンドクターはたぶん、そういう目線でもって「仕事」をしているんだろうし、 業界をまたいで何かをするときには、こういうのは大切なんだと思う。