記録が前進の原動力になる

今は電子化された原稿を、出版社の方に、暫定的に Subversion で管理していただいて、 原稿に加わった変更の履歴だとか、あるいは出版社側で行われた処理については、 逐一Trac というアプリケーションで閲覧できるようになっている。

そもそもまだ、企画が通るのかどうか分からない段階。出版社の、言わば軒先を借りて遊ばせていただいているだけなんだけれど、 これは本当に快適だなと思う。

振る舞いがコンテンツになる

単なるユーザーとしてTrac を使う分には、これは単なるホームページに見える。

Wiki みたいに、自ら何かを書き加えることもできるみたいだけれど、Trac は、 原稿に関する自分の振るまい、Subversion からチェックアウトしてきた原稿をあれこれ直して、 それにコメントを加えてコミットするという、一連の作業が、そのままTrac のコンテンツとして、 Web ページに反映される。これがとてもありがたい。

原稿に手を加えて、そのあとどこか別のページを開いて、コメントをほんの数行、Wiki みたいな ページに加えることは、決してすごい手間ではないんだけれど、「楽しみ」で何かやることと、 「仕事」で何かやることと、同じ手間であっても、感覚されるコストはずいぶん異なってくる。

今やっていることは、決して仕事ではないんだけれど、自分の原稿を自分で直すところまでは「楽しみ」で、 変更履歴を、たとえばどこかのページにログインして、キーボードを同じだけの量叩いて、 コメントがきちんとページに反映されたことを確認して、ここまでの作業は「仕事」になってしまう。

仕事というのは、やっぱり「サボりたい」ものだから、手作業手作った履歴は、やっぱり完璧には遠くなる。 わずかな手間でしかないんだけれど、「わずか」が「ゼロ」になる場所には、たぶん革命が起きている。

トラッカーのこと

軍隊や警察の特殊部隊では、チームの各メンバーに、いろんな役割が割り当てられている。

チームリーダー、最初に突入するドアブレイカー、突入要員、爆発物を取り扱うEODスペシャリスト、狙撃を担当するスナイパー、 みんな特殊な能力を持った専門家で、映画なんかではそれぞれの見せ場が必ずあるものだけれど、 現場ではもう1人、ここに「トラッカー」と呼ばれる追跡のプロ、情報収集のプロという役割があるんだという。

トラッカーは、チームの全体像を見渡しながら、現場に入ってくるあらゆる情報を収集して、 それを記録/整理して、いつでも再利用できるように保管している。リーダーが何かを決断するときだとか、 こういう記録がその時に生きて、チームは難局を乗り切れる。

トラッカーは、単なる記録係なんかじゃなくて、チームが前進するための推進力を作り出すための仕事でもある。

優秀なトラッカーの進言は信頼されるし、思考の遠回りを避けることが出来る。 優秀なトラッカーがチームにいてくれると、チームはあとの憂いなく突っ走れるから、チームの仕事の能力はますます向上するのだという。

以前読んだ建築デザインの本に、こんな「トラッカー」のお話が書いてあって、なるほどと思ったんだけれど、 たとえば「メモが上手な研修医」が病棟に回ってくると、たしかに仕事がとても楽になる。 こういう仕事は重要な割に、みんな「突撃」が好きなものだから、優秀なトラッカーというのは少なくて、 自分でこれをやるのはやっぱり大変。

記録と後戻りと前進と

Trac というアプリケーションには様々な機能があるみたいで、自分が体験したのは、ほんの上っ面なんだけれど、 こういうアプリケーションもまた、使ってみないと、あるいはそれでプロジェクトを動かしてみたり、 あるいはチームがトラブルに巻き込まれてからでないと、そのありがたさというものが伝わらないような気がする。

「いつ誰が何をどうやった」という、一連のログがきちんと残っていれば、たいていの場合、 トラブルは回避できるし、あるいはそれが起きたとして、Subversion みたいなアプリケーションで 過去のバージョンを全て保存してあれば、時計の針を戻すことだってできる。

計画段階で快適そうなやりかたと、実際やってみて快適なやりかたとの間には、やっぱり超えがたい溝みたいなのがあるんだと思う。

母親の仕事なんかを見ていても、出版という業界は、綿密な計画に基づいて物事を進めるところだと思っていたんだけれど、 今はなんだか、打ち合わせの前にプラットフォームができて、企画が通る前に製品があって、会議の前なのに、 スケジュールだけはもう全部決まっている。

階段を上るようなやりかたとは対極的な、今のやりかたは、階段をあえて崩しているようにすら見えるのに、 先の見えないそういう状況が、なぜか圧倒的に快適。いつでも後戻りできる状況を整えた上で、 毎日のように試行錯誤とを繰り返しながら突っ走る、こういうのをアジャイルと呼んでいいのなら、 このやりかたはたしかに、現場の生産性を高めるんだろうと思う。