「ない」を重ねて未知を知る

「うちの患者さんじゃありません」なんてコメントが、いろんな科から戻ってくる。

原因疾患が特定できない患者さんを抱えて、自分じゃ分からないから、いろんな専門科に患者さんを紹介するんだけれど、「少なくとも循環器じゃない」だとか、下手すると「少なくとも外科じゃない」だとか。

分からないことだけはよく分かる

分からない患者さんというのは、たいていの場合、他の人にもやっぱり分からない。もちろん世の中のどこかには、「分かる」人がいるはずなんだけれど、その人がどこにいるのか、主治医にはやっぱり分からない。

「うちじゃない」という返事はその代わり、分からない患者さんであったとしても、ある程度の確信を持って提出できる。「うちじゃない」を証明するためには、自分がカバーしている範囲の知識に照らして、その人の症状だとか、全身状態を一つ一つチェックすればよくて、問題の大きさが有限だから。 専門家はしばしば、「ある」の診断セットとは別に、「ない」の診断セットを隠し持っていて、分からない患者さんが紹介されると、「うちじゃありません」なんて返事を導く。

「ある」を探してひたすら紹介するのは効率悪くて、それでもやっぱり、「ある」にはなかなか行き当たらない。 3つぐらいの専門科から「ない」をもらうと、その代わり、患者さんに残された診断名は、ずいぶんと絞り込まれる。そこはたいてい「膠原病に連なる何か」であったり、「内分泌疾患に連なる何か」であることが多くて、分からない患者さんというのは、たいてい最後はこういう科に紹介されて、膠原病内科や内分泌内科の先生がたは、だから「分からない」問題に対する耐性が高い人が多い。

それぞれの科から「ない」を持ち寄って、体系化できたらいいなと思う。

「ない」を断じるやりかたというのは、未知問題に対峙するときの大切な手がかりで、「ない」をいくつか重ねることで、無限の未知は有限に、よしんば病名が「これ」と決まらなくても、やるべきことが見えてくる。

正常を知って「ない」に当たる

未知に対処するための万能解は、言葉遊びだけれど「正常を知る」ことなんだと思う。 逆のやりかた、「全ての未知を知る」ことは、確実だけれど難しい。

正常を知っていれば、知らない病気の人がきたところで、その人が「正常でない」ことまでは感覚できるし、自分の専門領域について、「守備範囲の正常」を体感できているならば、「少なくともうちじゃない」が、ある程度の確信を持って判断できる。

自分が作っていたマニュアル本は、判断に「正常」を含めることで、逃げ道を確保してある。ある検査を提出して、「それが正常ならば」、こうであるというやりかたで、「それが正常」という判断については、読者の感覚にゆだねている。

このやりかたは、「正常の理解度」に応じて、診断精度が変わってくる。フローチャート形式の教科書は、判断分岐には「数字」が書いてあって、「正常」なんて曖昧な言葉は使わないんだけれど、あれはやっぱり難しいし、フローチャートは結果として、留保がたくさん付帯して、使いこなすのが難しい。

「正常を知る」ことと、「全ての未知を知る」こととは、同じぐらいに難しいんだけれど、知識の穴を隠蔽しやすいこととか、「知る」にたどり着く道が何通りもあって、各人のやりかたで診断精度を上げられることだとか、「全ての未知を知る」やりかたよりも、メリットが大きいような気がする。その代わり、「正常」というのは記述不可能なところがあって、これを「学ぶ」ためには、日常臨床を重ねることしかできないんだけれど。

恐らく「遊び」が鍵になる

「正常を知ること」だとか、「未知問題に対峙できる」能力を磨くためには、たぶんどこかの期間で「遊ぶ」こと、教科書なんかに「バカ」と断じられているようなやりかたを含めて、それが「どうバカなのか」を実地で経験していく機会を持てないと、この領域にはたどり着けないのだと思う。

「遊ぶ」こと、あらゆる可能性を探って、手続きを、制約の集積として、もう一度理解しなおす行程を経ることで、その人はようやく名人になれる。

自分たちの業界では、もはや「遊ぶ」ことなんて許されないから、だからこういうのは、名人の昔話をひっくり返さないといけないんだけれど、そういうのは残っていないし、「昔のバカ」を語ってくれるベテランは少ない。

理論が完成している領域であればあるほど、調べるのが難しい。

たとえば感染症の領域なんかはそれが顕著で、「ある」の所見は詳しいんだけれど、「ない」の所見は、大きな教科書を見ないと載っていない。

  • 麻疹の患者さんに赤血球沈降速度を提出したら、それは果たして高いのか
  • インフルエンザの患者さんに血液検査一式を提出したとして、たとえばCRPは上がるのか

こういうのは、教科書的には意味のない検査だから書いていなくて、だから専門の人が「バカをやった」時の経験を尋ねるしかないんだけれど、「遊ぶこと」がそれでも許された時代の人は、今はもう60代目前。

この人たちの昔話を、集めて体系化できたらよかったのだけれど、「バカ話」を証明するのは無理だから、今ではそれも難しい。

追記:ブクマコメントで教えていただいた Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか の考えかたは、求めているものに近いような気がしました。