無限の暗示から外に出る

たぶん「無限の世界暗示」みたいなのがあるんだと思う。

「その問題は大きすぎて解けないから、もっと頭のいいやりかたを考えましょう」とか、あるいは「問題のバリエーションは無限だから、無限に対応するために、創造力を養いましょう」とか、「創造」と、「頭の良さ」とを結びつけるような考えかた。

算数は暗記だった

無限に思えた問題を実際に解決してしまう、結果につながる頭の良さを持つ人は、むしろ「力技」を好むような気がしている。 「その問題の大きさは有限である」と看破したら、あとは力で突っ走るようなイメージ。

子供の頃、塾では「算数は暗記だ」と教わった。「すばらしい問題」なんて、そんなにぽんぽん作れるもんじゃないから、「覚えれば解ける」のだと。覚えるのは厚さ3センチぐらいの、正直小学生には手に余るような教科書なんだけれど。

学校ではその頃、たぶん算数というものを、むしろ創造に連なる何かとして習ったんだと思う。このへんはよく覚えてない。でも少なくとも「暗記」のおかげで、自分は受験に通った。

入学試験を作る算数の先生が、どれだけ創造力に富んでいたとしても、たぶん「いい問題」を無限に作るのは難しい。「いい問題」と「複雑な問題」とは異なって、小学生が持つ算数知識の範囲内で、「一見難しいけれどひらめけば解ける」ような問題を作るのは大変で、先生が頑張るほどに、それはしばしば、単なる「複雑で難しい」問題になってしまう。

複雑さというのは、単純さの組み合わせだから、塾の先生が10人がかりで過去問を揃えて分類すると、複雑な問題は分解されて、力ずくで解くやりかたが編み出されてしまう。本当の「いい問題」は分解できないけれど、そんなものを毎年100点分、塾の先生がたをうならせるようなものをぽんぽん作れるような算数の先生は、受験校といえども、たぶんそんなに多くない。

算数の問題はだから、試験に合格するレベルの達成度を目指すのならばたしかに有限で、分解されたやりかたを一通り暗記できたなら、「創造」が、単純作業の組み合わせに還元されてしまう。

無限に負けると創造を目指す

医師国家試験の勉強なんかもまた、あれは作業だった。

「病気の数は無限にあるので深く理解するしかないのです」なんて、大学ではそんなことは教わらなかった。ひたすら「覚えろ」と教わって、それこそ辞書みたいな本を何冊もこなしたけれど、結局覚えられた。

超ひも理論を追っかけてる人たちは、あるとき問題が「無限じゃないらしい」なんて聞いたとたん、勇躍力技の単純作業に乗り出したらしい。先端物理の人たちは、「いわゆる頭のいい人」のステレオタイプばっかりなんだろうけれど、彼らもまた、「それは無限だから、もっと頭のいいやりかたを考えつくまで待ちましょう」なんてことにはなってない。

「ある日すばらしいやりかたを発見して、無限に大きな問題を単純に解く」ことを夢想している人というのは、どこかで無限に敗北しているのだと思う。

たぶん「頭のいいやりかたを思いつく」ためのコストと、「力技で大量の単純作業をこなす」ためのコストというものがあって、無限の暗示にとらわれた人は、たぶん後者を大きく見積もりすぎて、思考停止に陥る。「それは難しい」なんて独りごちて、解ける問題を前にしながら、それを解けない自分に満足してしまう。

「創造性が試されるような問題を、単純作業の集積であると看破する」能力というものが、たぶん頭の良さというものを表現するための、パラメーターの一つなんだと思う。

暗示の外に出られたなら、きっとそこに未来がある。