名人の資質

「名医であること」や「名人であること」には定義があって、定義だとか、理論を知らないことには目指すことができないし、その人が置かれた状況によって、磨くべき能力も異なってくる。

医療の円環構造

「医療」においては、病歴や、家族歴の聴取に相当する「情報収集」、情報を元に、暫定診断や、バックグラウンドで生じていることを推定する「仮説設定」、他覚的な検査を使った「検証」という、各工程を経ることで、はじめて医師は、処方や手術といった「行動」を決断することになる。

「情報」「仮説」「検証」「行動」の各工程は、円環構造を作っている。行動の結果は再び情報収集され、治療の反応に対する仮説が作られ、それが検証された後、次の行動が決定される。

それぞれの工程は、「速さ」と「大きさ」の、各パラメーターを持つ。 それぞれの能力が大きいほどに、工程をこなす時間が短いほどに、患者さんの治癒可能性は、より大きくなっていく。

各工程ごとの「能力の大きさ」と、「工程を通過する速さ」とには、ある程度相補的な関係がある。たとえば収集された情報が貧弱であったとしても、収集が極めて短時間で行われるならば、その貧弱さはある程度許容できる。どれだけ詳しい情報収集能力を持っていたとしても、それに1時間も2時間もかかるようでは、患者さんの症状は、その間悪化していく。

ある工程の弱さは、円環構造を共有する別の工程で補うこともできる。仮説設定がいいかげんであっても、検証プロセスが十分に強力であるならば、「仮説設定」の能力が弱くても、それはある程度まで代償できる。

「よき臨床医」というもの

昔ながらの臨床研修が目指している「よき臨床医」は、情報収集と仮説設定の能力向上に、教育リソースの大部分を割り当てている。

能力の向上幅は大きな代わり、教育には時間がかかるし、能力の緻密さは、しばしば速度とのトレードオフになる。

「よき臨床医」はだから、緻密な情報と、それに基づく正しい仮説設定を前提にすることで、検証に要する検査を減らし、行動決定に至るまでの時間を短くすることで、円環サイクルの「大きさ」と、「速さ」との両立を目指すんだけれど、思考の「速さ」と「緻密さ」は、しばしば両立が難しい。

名人は「ずる」をしている

ティアニー先生みたいな、ああいう「名人」は、いわゆる「よき臨床医」とは、パラメーターの磨きかたが違うような気がする。

あの人は、情報収集が丁寧で、その代わり、仮説設定が恐ろしく速い。

あれは「頭の回転が速い」のではなくて、たぶん「膨大な知識と臨床経験による思考のショートカット」を行っているのだと思う。

患者さんを診察したあと、ティアニー先生はいきなり「講義」をはじめて、疫学データを語りながら、診断リストがみるみるうちに出来上がるんだけれど、あれはたぶん、その場で演繹しているわけではなくて、頭の中にある膨大な「脚本」の中から、状況にあったものを引き出して、それを朗読しているんじゃないかと思う。

「思考」というよりも、むしろ「想起」でそれを置き換えることで、名人はたぶん、緻密な仮説をすばやく作ることができて、検証プロセスは最小限でいけるから、結果として、能力の大きさと速さとが、高い次元で両立している。

「よき臨床医」を目指す人はしばしば、能力にこだわるあまりに、速さを見失っているような気がする。正しく研鑽を積んだところで、「名人」に到達できない。

速度を目指す別のやりかた

「よき臨床医」をみんなが目指せば競争になってしまうけれど、「能力の総和」と「円環を回す速度」とを両立させるやりかたには、たぶん他の解答もある。

たとえば情報収集の貧弱さを受容する代わりに速さを優先して、緻密な仮説設定をあきらめる代わりに、症状と病名とをハードワイアした表を用いることで、「情報」と「仮説」プロセスをショートカットすることができる。

「情報」と「仮説」はその代わり貧弱なものになってしまうけれど、「検証」工程に大きなリソースを割り当てることで、それを代償することができるなら、総能力をそれほど落とさずに、もしかしたら「速さ」が得られる。

「よき臨床医」の競争を勝ち抜くだけの能力を持っていなかったとしても、何か「別のずる」をすることで、競争を回避しながら、「名人」のいる場所を目指すことができれば、それはずいぶんかっこわるいことだけれど、患者さんの治癒可能性は高まる気がする。

必要な能力は状況ごとに異なる

内科の場合は、教科書が充実しているから、「仮説」を設定しあたとの行動については、人による差は少ない。「その人しか知らない特別な治療」を行う内科医というのは、「すごい名人」であるよりも、むしろそうでない可能性のほうが高い。

これが外科になると全然別で、人間的には今ひとつだけれど手術室に入ったら神になる人がいたりだとか、「とりあえず腹を開いてから考える」ような、いいかげんな思考をする人が、患者さんの治癒に最も貢献したりだとか、「行動」で全てをひっくり返す状況というものが、日常的に発生する。

「ゴッドハンド」という表現は、だから外科系の医師だとか、あるいはカテーテル内視鏡治療の領域に発生する言葉であって、「ゴッドハンドを持った一般内科」を目指しても、その努力は効率が悪いと思う。

自分がどういう場所にあって、そこはどういうルールで回っているのかを知ることで、目指す場所だとか、磨くべき能力は変わってくる。

視野のどこかに「名人」をみる、幸運な状況に置かれた人は、その人のすごさにひとしきり驚かされたら、今度はマジックの種明かしを試みると、勉強になるような気がする。