来るはずの 俺の時代が 来なかった

ネットから実世界への、「越境」の難しさについて。

研修医向けに作った原稿を書きためて、ネットで少しだけ名前が売れるようになって、 商業出版品質にギリギリかする程度になった原稿を持ち込んで、出版社からは好意的な評価を いただくこともできたのに、ようやくたどり着いたこの段階になって、 そこそこ売れた自分の「名前」が障害になって、話がなかなか前に進まない。

匿名世界では何でもできる

昔の「テキストサイト」時代、アクセスがそこそこ増えてきて、身の回りのちょっとした「バカ」をネタにして、 読者がそれなりにつくようになってくると、それがエスカレートしていく人がいた。 何度も何度もバケツでプリンを作ってみたりだとか、マクドナルドに行って、肉を何十枚もはさんでみたりだとか。

同じようなネタを何度も何度も、もう本人はそれをそんなに楽しんでいるようには見えなくて、 読者だって、恐らくはそれに飽きていて、その割に、たぶん「ネタ」を一つこしらえるコストは 回数を重ねるごとに増えて、いつのまにか更新を止めてしまった。

ネットで肯定的な評判をもらえるようになると、奇妙な全能感にとらわれる。 ネット世間での自己が、実世界の自己を浸食して、もっと大きな評判を勝ち取るために、 なんだか実世界での振る舞いが変わってしまう。

越境すると地金が見える

スタートが圧倒的に楽だから、今はたぶん、実世界で何かをやりたいと思ったところで、 最初はネットからはじめることが多いのだろうけれど、ネットから実世界に越境するところで、 その人はもう一度評価を受ける。

匿名を顕名に変える段階で、「取り付け騒ぎ」みたいなものがおきる人がいるんだと思う。

今まで匿名で何かを積んできて、そこそこの名声と、たくさんの読者がついて、 ネット世間での、ローカルな有名人になれたところで種明かしをして、そのときの、 みんなの「わぁ」という驚きが、本人の想定を下回っていた場合、たぶん何かが崩れる。

越境を試みるその人の、「わぁ」に対する期待値が大きければ大きいほど、恐らくダメージは大きくなる。

「わぁ」の声が小さいことを認めてしまえば、ネット世間での自己が崩れてしまう。 その小ささを認められないのなら、ダメージが及ぶその前に、ごく短期間で、 自らの期待値と、世間の「わぁ」との帳尻を合わせないといけない。 それは結果として、無理な「ネタ」を連発することにつながって、 それはたぶん、外からみると、その人の奇妙な振る舞いとして観測される。

これは面白すぎて本blog に載せると大変だ」なんて、 自意識特盛りにした文章を匿名ダイアリーに載せて、 それが何事もなかったようにスルーされたときの絶望感はものすごい。

なんというか、実世界での自分が、ネット世間でのハンドルネームに大負けした気分になって、 気持ちが焦って、下らない自作自演をしてみたり、匿名ダイアリーなのに、 なぜかハンドルネームでブックマークをつけてみたり、1年ぐらいたってみると、 頭抱えて転げ回りたくなるぐらいにみっともない振る舞いをしている。

すごい勢いで何かを取り戻したくなる、地金が見えたあの瞬間というものが、 ネットから実世界に越境するときには、恐らくはもっと大きな形でその人を襲う。

売れる人と本が出る人

海に船を浮かべるためには、「陸上で船を造る」工程と、「船を海に浮かべる」工程とがあって、 頑張って豪華客船を仕立てたあげくに、気がついたらそれが重たくなりすぎて、船を押して海に浮かべようにも ピクリとも動かない、という状況があるのだと思う。

出版社の人とお話をさせていただいて分かったことは、「一度燃えた紙は元に戻らない」なんていう、 ある意味当然のことだった。

ネット世間で手っ取り早く名前を売ろうと思ったら、とりあえず燃やして目立って、 やり過ぎたら消えるのはタダなのに、商業メディアでそれをやるにはものすごいお金がかかるし、 一度「燃えた」自分の名前には傷がついて、それをぬぐい去るのは難しい。

「売れる人になる」方法と、「本が出る人になる」方法とは、たぶんだいぶ違うし、 「本を出してから売れる人になる」ことは十分に可能だけれど、逆を目指した人は、 そもそも本を出すこと自体が難しくなってしまう。

出版社の方と相談をさせていただいて、せっかく「ある程度売れる可能性がある」との評価をいただいた のに、ネット世間での自分の名前という、冗談みたいな代物が障害になった。編集部の方は、 真摯に「売れるための方法」を考えて下さっているのに、企画を持ち込んだ当の本人が、 下手すると「本が売れない元凶」になりかねなくて、申し訳なくて、話をお断りせざるを得なかった。

今また「匿名で小さく売る」企画で何とかならないものか、話を少しだけ前に進めているところなんだけれど、 自分は今まで、「越境するための努力」というものを放棄して、明後日の方向に力を入れすぎていた気がする。

「ネット経由で将来リアルに打って出るんだ」なんて考えてる人は、だからたぶん、 名前を売ることと、越境することと、最初の頃から力の配分をきちんと考えるべきなんだと思う。