平和を求める声が戦争を呼ぶ

動物には、「同族同士は殺しあってはいけない」という共通認識が組み込まれていている。 同族どうしで利害の対立を生じても、だから争いは威嚇だけで終わったり、暴力が導入されても、 それは儀式的な戦いで終わることが多くて、「殺しあい」に発展することは少ないらしい。

同族で殺しあうことに対する抵抗感は、人間であってもやっぱり強い。 第二次世界大戦以前、兵士の発砲率はせいぜい2 割ぐらいで、「殺さなければ殺される」ような 状況においてもなお、多くの兵士は銃を撃たなかったり、あるいは狙いを外したりして、 自ら「殺す」ことを避けようとした。

人間には、元々から争いを避けるような性質が備わっていて、それをそのまま生かすような やりかたをすれば、状態としての平和は、結果として達成される、はずだった。

合理化が抑制を解除する

「殺したくない」という抑制は、相手との物理的な、心理的な距離が近いほど強力になる。

剣や槍の間合いよりは、銃の間合いのほうが抵抗感は少なくて、 銃を用いた撃ちあいよりも、航空機同士の戦いだとか、艦船同士の戦いのほうが、 戦いによるストレスは、より少なくなったらしい。

人間はたぶん、自らの意志で、自らの責任で誰かを倒す必要が生じたときに、 もっとも強く抑制が働く。裏を返せばだから、なるべく「頭を使わせない」ような やりかたをすれば、誰でも簡単に暴力をふるうようになる。

暴力の合理化。

  • 誰が殺したのかはっきりしないように、戦いを集団で開始する
  • 戦いは常に権威者からの命令で行われて、自らの意志を保護する
  • 「国家の解放」だとか「テロとの戦い」だとか、戦いに大義をもうけることで、暴力を正当化する
  • 「相手は人間以下の生き物だ」とか敵を貶めることで、暴力を合理化する
  • 撃てば血しぶきが飛ぶようなリアルな標的で訓練することで、実戦と訓練との境界をあいまいにする

ベトナム戦争以後、軍隊ではこんなやりかたを試みて、 兵士の発砲率は9 割程度まで上昇して、旧来の訓練を行った軍隊に比べて、それは大幅な 戦力アップにつながったのだという。

暴力発生装置としての宗教

「大聖堂」という歴史小説の舞台になった中世、馬に乗った騎士が活躍してた時代には、 宗教というものが、抑制解除装置として役に立っていたのだと思う。

誰かを殴るとか、槍で突く、刀で斬りつけるなんて暴力をふるうには、それが 騎士であっても大変なストレスであったはずで、そんな行動を正当化するための、誰か権威者の 「赦し」みたいなものをもらわないと、彼らだって刀を振るえなかったのだと思う。

「大聖堂」は小説だけれど、戦争だとか略奪だとか、騎士階級の人達が争いに参加する前には、 司祭が説教をして、彼らがこれから行使する暴力を正当化する場面が何度も出てくる。

暴力の正当化は、騎士に力を与えたのだと思う。

騎士は馬に乗って武器もって、たしかにそれは十分に強力だけれど、騎士をいっそう強力な存在に していたものは、たぶん教会によって与えられた「暴力をふるう許可」であって、 そんなものを与えられていたからこそ、彼らは自らの抑制を解き放って、 暴力をふるうことができた。

騎士と農民、戦力の差が実際のところどれぐらいあったのかは想像できないけれど、たぶん教会の人達は 騎士にだけ「赦し」を与えた。暴力発現に対する合理化の有無は、相当な戦力差となって効いたのだと思う。

ドアを叩く人

NHK の「ワーキングプア」特番だったか、青年が不当な扱いを受けて、アルバイトを解雇されてた。

番組前半、その人は会社の人事部と相談して、穏やかな、しかし何の解決にもつながらない相談が続いて、 結局解雇は覆らなかった。

解雇された青年は、そのあと「ユニオン」の門を叩いて、 今度はユニオンの人が同伴して、場面は再び会社に移った。

ユニオンの人達は、見た目はむしろ温厚そうな、小太りのおじさんなのに、会社に着いたら態度が変わった。 年齢も、体格も上の人間を向こうに回して、相手を怒鳴りつけて、会社のドアだとか壁だとかバンバン叩いて、 再度「交渉」を取り付けてた。

あんなやりかたは、たぶん「それをやらないことには絶対に議論が進まない」なんて、会社組織と労働組合と、 長年の経験と訓練とのたまものなのだろうけれど、同伴していった青年は、やっぱり会社の人と穏やかに話してて、 「怒鳴る」のは何だか大変そうだった。

ユニオンの人達も、たぶん「プロ」だから、日頃から鍛錬している部分もきっとあるんだろうけれど、 あの人達もまた、「人は平等であるべきだ」なんて正義を戴くことで、平等という権威から 暴力の行使を「許されて」いるからこそ、必要な瞬間に、必要なだけの暴力を取り出せるのだと思う。

中世騎士時代、騎士と農民とが戦う状況で、あるいは両方の戦力が拮抗していても、 「赦し」の有無が決定的な力の差を生んで、騎士の支配は覆らない。

恐らくは支配される側が、暴力を正当化する論理として「人間は本来平等なんだ」なんて考えかたができて、 平等を正義に戴くことで、支配される側の人達は、初めて「騎士」と対等の場所に立てた。

それがどんなに高貴な考えかたであっても、それを「正義」として戴いたとたん、 それは暴力の合理化装置となって、それを信じる人達に、一方的に力を与えはじめる。

正義の優劣は比較できる

「平和が大切」だとか、「人は平等に権利を持っている」だとか、あるいは「健康が一番」だとか、いろんな正義。

いろんな考えかたがあって、どんな考えかたにもたぶん、それを「正義」と戴く人がいる。 そんな人達は、正義によって抑制が解除されるから、正義の比較を始めると、 それは必ず暴力で終わる。

正義というのは、それでもたぶん、優劣みたいなものを比較可能で、 「正義が進化していくべき方向」みたいなものですら、あるいは予想することができる。

「正義の正しさ」は、たぶん「その考えかたを正義として戴いたときに、そこにいる人達が選択しうる 選択肢の最大量」として、定量できる。

「正義の正しさ」には優劣がある。同じ状況で、選べる選択肢が多い正義ほど「優秀」だし、 正義の考えかたは、選択肢を増やす方向、増やす方向へと進化することで、 たぶん暴力が発動される機会が減って、生き延びる人の数は増えていく。

たとえば革命直後の不安定な国家に、「平等という正義」で挑むと、平等に違反した人がたくさん生まれて、 悪人は殺されて、国が全滅したりする。クメールルージュは虐殺を行ったけれど、 あの人達ですら、目指したものは「平等でお金のいらない社会」であって、 虐殺は、あくまでも手段の一つでしかなかった。

同じ状況に、たとえば「拝金主義」なんて正義を導入すれば、 その国家は悪人のはびこる不平等な社会になるかもしれないけれど、生き延びる人は、「平等」よりも ずっと多くなる。拝金主義は、考えかたとしては「汚い」けれど、その場所にいる人達に、 より多くの選択枝を提供する考えかたでもあって、生き延びるチャンスを増やす。

「その正義の下で取り得る選択枝」が増えると、たぶんそれだけ「悪人」と断じられる人の数が減る。 正義によって暴力が合理化される機会が減って、結果としてたぶん、暴力の発動で殺される人の数が減る。

バージニア工科大学銃乱射事件で親友を殺された学生さんは、1 年間考えて、「銃を持つ」ことを選択したのだという。

事件のあと、大学内では「銃を禁止すべきだ」という意見と「自衛のために銃を許可すべき」という意見で割れた。最初のうちは、銃の廃止に賛成していたらしい。 考えて、その学生さんは、 「銃を禁止することで、選択枝が一つ失われる」ということに思い当たって、銃の所持に賛成する側に回った。

合理化による思考停止が抑制を解いて、人を暴力に走らせる。

選択の多様性を保つやりかた。間違った合理化を回避するやりかた。そこにいる人達を、 常に思考に引きずり込むようなやりかたこそが、みんなが正義として戴くべき、「正しい」考えかたなんだと思う。