貨幣がもたらす秩序

中国の被災地で、援助物資の横流しを行っている人がいるとか、 市民による略奪が起きたり、被災地は暴動寸前だなんて報道を見た。

「貨幣」というものは、あるいは秩序をもたらすのかもしれないなんて、ちょっと考えた。

災害現場に銀行を作る

今のやりかたは、軍隊だとか政府機関が、援助物資と一緒に現場に入って、 被害にあった人達を集めて、物資を均等に配る。政府側の人にだって限りがあるし、 被害にあった人達だって、ほしいものとか足りないものとか、みんな違うだろうから、 時間はかかるし、「配る側の公平」と、「もらう側の公平」とは、絶対に一致しない。

物資は全て「もらう」ものだから、お互い買えないし、市場がないから交換も難しい。 10人ぐらいで集まって、「うちはミルク要らないから、代わりに毛布下さい」だとか、 お互い持っているものの価値が分からないと、たぶんやりにくい。

「市場」と「銀行」は、あるいは混乱した現場に「公平」と「秩序」とを もたらして、物資を上手に回すインフラとして機能するような気がする。

状況が一段落した頃を見計らって、政府がその場所に、「銀行」と「市場」の設立を宣言するようなイメージ。 戦後日本の「闇市」が相当近いかも。

援助物資なんかは、最初から「分配」をあきらめて、その代わり、スーパーマーケットよろしく それをまとめて「販売」する形式。もちろん現場にはお金なんてないから、同時に「銀行」を 設立して、被害にあった人達にお金を「貸し付ける」か、あるいはベーシックインカム制度みたいに、 一定金額を配分する。

貨幣が自制を生む

「平等に取る」じゃなくて、「選んで買う」のやりかたのほうが、たぶん「各自が必要なだけをとる」やりかた、 自制心みたいなものを引っ張れる気がする。

軍人が大挙して「平等」を実現したところで、自家用車に避難できた人には、とりあえず天幕は要らないし、 家族が多かったり、何軒か仲のいい家どうし、共同で生活していけるところなら、いくつかの物資は 共同で使うこともできる。

買うやりかたは、別にその場にいる人が互助の精神に目覚めたりするわけでなくて、 みんな「今は使わないで、将来のためにとっておく」なんて、利己的な欲求に従っているだけなんだけれど、 得られる結果は一緒。足りてる人は少なくもらうし、何もかも足りない人は、 「銀行」からお金を借りて、その分多くのものを購入できる。

「マーケット」はひとつ。マーケットに近い被害者は、たぶん「定価」で品物を購入できるし、 余力のある人はお金を借りて、たくさんの援助物資をリヤカーに積んで、離れたところまで「行商」にいける。

マーケットから離れたところの被害者は、だから利ざやの入った高額な品物を購入するか、 あるいはマーケットまで歩いていって、そこで「定価」で購入できる機会を待つことになる。

少なくとも「その場にいる人」がにわか商人になって分配に参加できる分、全てを政府機関が分配するやりかたよりも、 援助物資の拡散は速くなるような気がする。もちろん不当な利益をせしめる人だってでてくるのだろうけれど、 政府の「マーケット」が定価を決めている限り、その場の相場は保証されるし、NPOみたいな機関が 入ってきて、別ルートでの援助物資を安価に「販売」することを始めれば、相場は下がっていくはず。

すごく不公平なやりかたではある。被害の状況にしても、マーケットからの距離にしても、それは完全に「運」だから。 運がよかった人は、上手く立ち回れば大儲けできるし、運が悪かった人は、どうあがいても借金の山。

「運」要素についてはだから、別途政府で保証を行って、それまでは、現場に作った「銀行」が、お金を貸し付ければ いいのだと思う。政府のお仕事なんてどうせ遅いから、「何かを決めてから実行する」よりも、 とりあえず借金でもいいからマーケット回して、政治タームのお仕事は別のところでやってもらったほうが、 たぶん助かる人増える。

人が人でいられるルール

それが仮に災害現場であったとしても、人はやっぱり人でしかいられないのだと思う。

阪神淡路大震災の現場なんかですら、臨時に作られた救急外来には、「眠れない」だとか 「何となく具合が悪い」、「お腹がすいた」だとか、当面の生死には直結しない主訴を訴える人だって たくさん来たそうだし、なんだかよく分からない症状を訴える人が入院希望で来院して、 カップラーメンを「処方」したらすぐに全快しただとか、極限の状況であっても、 制度をおいしく利用する人もいれば、どんなに制度を充実させても、 それに到達できないで亡くなる人だって、やっぱりいる。

災害現場に居合わせた人が、災害が発生したその瞬間から、聖人君主になって互助の精神に目覚める なんてことはなくて、病院にはやっぱり「ノイズ」選別の問題、全てのサービスを無償で 提供したときに発生する、モラルハザードの問題がつきまとう。

平等とか、正義が好きな人というのは、何だか「困っている人は無垢でなくてはいけない」なんて信じてる。

災害に遭遇した人は、かわいそうな人だからこそ「平等でないといけない」なんて 信じられるし、彼らは「無垢」でないといけないから、援助物資で商売を始めたひととか、全力で叩かれる。

援助物資でお金を儲ける人というのは、たしかにずるく立ち回っているのだろうけれど、 あれだけ悲惨な現場にいてもなお、手に入る物資を集めて、自らの時間を使って、 それを他の人に配分しているとも言える。もちろん不当に高い対価を取ったりしているんだろうから、 「相場」は政府が介入すべきだけれど、彼らは少なくとも手を動かしていて、 動機はともかく、状況をよくすることに寄与している。

あの人達を「悪人だ」なんて射殺したら、平等とか「かわいそう」好きな人達の気は晴れて、そこは平等な社会に 近づくのかもしれないけれど、曲がりなりにも分配されていた援助物資は、たぶんそのまま 放置される。

「お金のない平等な国」、クメールルージュ時代のカンボジアでは、だから物資が公平に足りなくて、 目の前に椰子の実が転がっているような、それでも食べ物がまだ残っている原生林の中、 食べ物を目の前に餓死する人がたくさん出た。

平等ルールとか、トリアージの考えかたが本当に役に立つ、あるいは市場ルールが全く通用しない状況というのは、 サービスの受け手に判断能力が期待できないケース。子供だとか、災害現場のトリアージだとか。

START法みたいな災害トリアージのやりかたには、患者さんとの会話が想定されていない。 息をしているかどうか、歩けるかどうか、循環は確保されているのか、そんなものを見て、患者さんの重症度を決定する。 会話ができる人とか、そもそも「判断」が自分でできる人は、だから最初からトリアージの対象になり得ない。

判断ができる人達を相手にできるなら、たぶん「市場」とか、「経営」の考えかた、人が人のままいられるルールは、 きっと役に立つと思う。