分配と経営

何とかしないといけない状況があって、そのときに何も考えないのは最悪で、 一人のリーダーが状況を仕切るやりかたは、「頭一つ」分だけまし。

一番いいのは「みんなで考える」やりかただけれど、それをやるのは案外大変。

イデアというのはサボると出なくて、絞り出す、引きずり出すようなやりかたしないと出てこない。

状況を乗り切るために「みんなで考える」やりかたは、だからあんまり快適じゃなくて、 むしろ思考を引きずり出される側の人にとっては、しばしば不快ですらあるんだけれど、 「状況を乗り切る」目的達成するためには、援用できる思考リソースは、 きっと多ければ多いほど、いい結果に結びつく。

分配と経営

助けを必要とする人がたくさんいて、提供できる手の数は限られる。 有効な助けを出すためにはリソースの集中が必要で、不十分な助けというのは、 慰めにはなっても、結果につながらない。

こんな時に「みんな平等」をやると、みんなに「不十分」が行き渡って、 投入するリソースは、全部無駄になってしまう。

誰か有能なリーダーを投入して、限られたりソースを正しく分配できれば、 今度はたぶん、十分な助けを得られる人と、全く助けが得られない人とが出る。またもめる。

平等とか、分配の考えかたは、「相手には能力がない」ことを前提にしている。

「平等」ルールを回すには、そもそも誰の思考も必要としないし、リーダーによる分配もまた、 リーダー一人が考えて、それ以外の人達には、思考したり、手助けしたり、そんな能力が 最初から期待されていない。

「限られた」リソースは、状況によっては増やすことができる。

「経営」を考える人達は、サービスの受け手に「能力」を想定する。その人達の考えかたとかアイデア、 あるいは「手」それ自体をも利用して、限られたリソースを増やす仕組みを考える。

手を増やす

状況さえ選べるならば、「手」を増やす方法はある。

島の病院ではご家族が付き添ってくれるから、検温だとか、患者さんの経過報告だとか、看護師さんとか、 あるいは医師の能力をずいぶん肩代わりしてくれる。それができるのは、もちろん島の失業率が高いだとか、 「島にそこしか病院がない」からこそ、医師があんまり信用されなくて、付き添いながらも 「監視」されてる面もあるとか、いろんな理由はあるんだけれど。

キリスト教系の某病院は、「看護への家族参加」をうたっていて、おむつ交換とか、体位交換とか、 そんな業務は、付き添いの家族が主役になる。看護師は、やりかたを教えたり、介護の相談に乗ったりして、 主役はあくまで患者さんなんだという。

10年ぐらい前の話。今そんなことが通用するのかは分からないけれど、その病院ではだから、 看護師さんの業務がある程度軽減されて、その一方で家族はその施設への長期入院をいやがって、 医療者がゴリ押さなくても、病棟の回転がよかったらしい。

もちろん災害現場トリアージの時に、茫然自失のけが人に向かって「ほらあなた軽症なんだから手伝って下さい」 なんてやるのは無理だし、そもそも「今すぐ」何とかする状況が求められてるときには、 たぶんどんなに巧妙な制度設計を行ったとしても、「みんなの意見」を集めることなんてできないんだけれど、 そこまで絶望的な状況というのは決して多くはなくて、状況を「経営」するチャンスというのは、 探せばきっと多いはず。

小児医療の手が足りなくて、今現場に「トリアージ」を導入しようなんて気運が高まってる。 それをどれだけベテランの医師が行ったとしても、外来で待ってる親御さんに、 「あなたの子供は軽症なんだから3 時間待ちなさい」をやったら、やっぱりトラブルになるし、 子供も親御さんも、3時間もの間、黙って待つことしかできない。

夜間の小児科医療費を明日から10倍にしたら、元気はあるけれど熱のある子供の親御さんは、 たぶん子供の額に氷枕を当てて、自宅で朝を待つ。「10倍」ルールはただの受診抑制手段だけれど、 親御さんに「病気の価値判断」を要請して、結果としてたぶん、氷枕持った親御さんの数だけ、 限られてたはずの小児医療に、「手」を増やす。

現場を無能にするルール

心筋梗塞の患者さんが紹介された。既往もリスクもそろっていて、「動悸がしてめまいがする」なんて、 もう話聞いただけで心筋悪そうな患者さん。

「最初から心臓の専門施設を紹介したほうがいいんじゃないでしょうか? 」なんて水向けたら、 「症状は頭が中心だから、貴院のほうがいいと思います」なんて、ありえない返事。

救急車来て、紹介状開いたら「心筋梗塞の患者です。御高診下さい」。心電図添えられてて、 自動診断装置が「心筋梗塞」なんて診断してた。

その先生は要するに、もちろん全部分かってて、急を要する状況に対して正しく振る舞って、 にもかかわらず、自分に電話くれるときだけ「無能」になった。たぶん自分で大きな施設に電話するの 面倒だから、知能障害おこしたふりして患者さん投げた。

うちでは心カテできないから、患者さんは専門施設に搬送してもらったけれど、 忙しい午後、連絡したり同乗したり、2 時間以上持って行かれた。

このあいだ、外来で「胆石」を診断した産科の先生が、搬送先探すのに、 都市部なのに何軒も断られたとか記事にしていた。「外科だけれど胆嚢やってません」だとか、 「まずは内科に」だとか、理由はいろいろ。つまるところは「私には能力ありません」という宣言。

こんな時の最適解は、残念ながら、紹介する医師が「もっと無能になること」で、 この場合なら、「胆石」なんて診断つけないで、「お腹痛がってるんだけれど私馬鹿だから分かりません」なんて、 自分の「無能」を訴えればいい。高次施設は患者さんを受け入れざるを得なくなる。

能力見せると損をする。本当に馬鹿な話なんだけれど、今のルールは「無能」であることに罰則がなくて、 判断をするごと、能力を行使するごとに責任が発生して、残念ながら、能力を見せても見せなくても、 報酬はあんまり変わらない。

現場はだから、能力あって先が見える人から「無能」を宣言して、そんな人達は「隠れたニーズ」とか 勝手に掘り起こしては、やっかいそうな人をこっちに投げる。「能力ある」なんて一方的に認定された、 本当は経験年次も能力も、「能力ない」宣言した人に比べてはるかに劣る自分たちは、 「能ある無能」に食い尽くされて、現場はますます疲弊する。絶対間違ってる。

経営してほしい

行うべきは「トリアージ」なんかではなくて、やはり「経営」なのだと思う。そもそも足りてないんだから。 何万人もいる医師の集団は、未だに「経営」されていないから、リソースは「限られた」ことになって、 分配のやりかたばっかりが議論になるけれど、本来はたぶん、経営して増やすこと考えないといけない状況。

たとえば「紹介」という行為を1 回行う際に、一律100万円程度の紹介料を徴収するルールを設定するだけで、 最初に患者さん診た開業医の先生には「紹介の価値」を判断することが科せられる。

その価値があると判断されれば、その先生はお金をかぶって患者さんを紹介するだろうし、 正しい信頼関係が作れていれば、あるいはその医師が有能ならば、 「命の報酬」は、患者さんから受け取る手段を考えればいい。 あるいは自分のクリニックで患者さんを診察するなら、もちろん紹介料は発生しない。

全ての医師が「判断」を求められて、紹介料の価値が上がれば、今度は「有能であること」に 経済的な動機が発生する。本来有能な人達は、たぶん無能であるふり止めて、 きっと本来の能力を見せてくれるはず。

みんなで考えて、考えた結果として、足りない現場に「手」が増える。

「みんなで一緒に考える」社会というのは、だから本来的に苦しくて、 誰もが「能力を出す痛み」から逃れられない。

「みんな一緒で平等」という考えかたは楽だけれど、それは「みんな無能」を前提にした安楽。 「みんなで一緒に考える」、経営は、その「みんな」の能力を前提に、痛むことを強いる考えかた。

「平等」よりも「経営」のほうが、よっぽど人間的だと思うんだけれど。