間違えることが無意味になる仕組み

住んでるのが田舎だから、毎朝の出勤は自家用車で、田んぼの中を縫いながら、 信号のない交差点をいくつも通る。

あぜ道だけに、道はまっすぐ。田舎の常で、あらゆる道には素敵な舗装が施されてて、 見通しのいい直線道路は、その気になれば高速道路と変わらない。朝の忙しい時間帯、 みんな床までアクセルを踏む。

交差点を右に曲がる場所が何カ所かある。みんな飛ばしてる。いつも命がけになる。 車は切れない。だから自分が曲がろうと思ったら、相手のウィンカーを見るしかない。

曲がりたい側の車が、自分の方向にウィンカーを出す。そのときその車は減速して、 後続の車を遮ってくれるから、そのタイミングで交差点に進入できれば、自分も曲がれる。

相手がもしも「嘘をついた」ら、間違いなく事故になる。

田んぼ道のローカルルール

自分たちがいる車線は細くて、曲がりたい側の道は、太くてまっすぐ。同じ車同士だけれど、 何となく「立場」みたいなものは相手のほうが圧倒的に強くて、細い道で待ってる車は、 何だか譲っていただくような気分。

相手がウィンカーを出したら、だからそれ信じて突っ込むしかないんだけれど、 「相手のシグナルが常に真実」なんてこと自体、今の世の中信じられない。

細い道走る車はだから、道の真ん中付近で交差点を待つ。これをやると、 相手車線の進入経路を自分の車が微妙にふさぐ形になる。 車が進入しようと思っても、自分たちの車が邪魔で、入れない。

見通しの悪い交差点でこれをやると、間違いなく事故になる。交差点曲がったら、 道の真ん中に対向車が居座ってるわけだから。けれど、田んぼの真ん中は、100m先ぐらいまで、 遮るものが一切ない。

相手車線の車はだから、こちら側に進入するためには停止せざるを得なくて、 相手が減速してくれたら、こっちは安心して交差点に進入できる。 ローカルルールだし、もしかしたら道路交通法違反なんだろうけれど、 このルールを運用すると、相手のウィンカーが、仮に「嘘をついた」としても、事故は起きない。

判断の真実性について

ウィンカーみたいなシグナルにしても、人間同士の契約にしても、コミュニケーションというものは、 「相手が真実を述べていて、こちらがそれを信じる」ことが前提になっている。

相手が嘘をついたり、相手の判断が間違えていたりすれば、もちろん意図した結果は得られないし、 相手のシグナルを自分たちが読み違えれば、やっぱり正しい結果にたどり着けない。

シグナルを介したやりとりは、それが上手に回ればすごく効率がいいし、 「相手が真実を述べている」という前提の共有が為されなければ、 そもそも料金後払いの通信販売だとか、口約束で話進めるやりかただとか、 絶対に上手くいかない。

ウィンカーを無意味化する交差点ルールは特殊解かもしれないけれど、なんとなく、 一般化できそうな気もしている。

どんなコミュニケーションについても、相手が真実を述べようが、嘘を述べようが、 そもそも相手のそんな「判断」それ自体を無意味化できるようなやりかた。

交差点のローカルルールは、相手が自分たちの方向に曲がりたかったら、減速して、 居座っている車を進ませる以外の戦略がとれない。ウィンカーを正しく出そうが、 あるいは「間違って」ウィンカーを出しっぱなしのまま直進しようが、そもそも 道の真ん中で待ってる車はウィンカーを見ていないから、その「間違い」は、結果に 何の影響も与えられない。

料金先払いの、食券制度の食堂ルールと似ているけれど、これだとまだ、 食堂側の判断、相手に「おいしい」ものを提供するのか、「まずい」ものを 提供するのか、コミュニケーションに判断要素が残ってしまう。

相手の進入経路みたいな、相手のやりたいことに欠かせない何かをこちら側が持つことと、 「田んぼのあぜ道」みたいな見通しのよさというのが、何かヒントになっている気がする。

高信頼性が求められるような状況が増えてきている昨今、「過誤が無意味化する構造」 という考えかたは役に立つと思う。