公開討論覚え書き

鳩山代表と麻生総理との公開討論会MIAU 主催の、Webと政治に関する生放送を視聴したときのメモ。

討論形式の番組いうのは、必ずといっていいほど「編集」が入っていて、 演者の人たちもまた、たぶん編集前提で喋っていることが多いのだと思う。 自分のインタビューを公開していた知事の言葉は、無編集だと案外間延びしていたし、 国会ならばヤジだとか、相手の言葉を遮った質問だとか、討論というのはしばしば、 「生」で見るには耐え難い品質だった。

党首同士の公開討論会は、「無編集」が前提、全てを見せるのが前提で企画されていた みたいだから、お互いにいろいろ工夫をしていた。無編集の放送は面白くて、 発信のコストが下がるこれからは、たぶん「無編集」が常識になっていくだろうから、 日本語での、無編集、全て公開というルールでのしゃべりかただとか、 演者の態度みたいなものはどうあるべきなのか、これからいろいろ試みられるんだろう。

党首討論会のこと

  • 個人的にはやはり、麻生総理の「勝ち」だったような気がする。内容はともかく。鳩山代表は準備が足りないというか、「ブレイン」役をやった人が用意した資料が、討論会のルールにピントが合っていなかったのだと思う
  • 麻生総理の言葉というのは、少なくともあの会場において、首尾一貫していた。「自分はやれることをやった。それは成功であった」で、言葉の調子を変えなかったから、堂々として見えた。それが正しいかどうかはともかく、「そう見えた」ということに関しては、間違ってないと思う
  • ああいうやりかたはその代わり、態度を常に一定にせざるを得ない分だけ脆くて、「ああ言えばこう返す」というパターンも、たぶん1つか2つぐらいしか用意できなかった。麻生総理は、鳩山代表の質問に対して、万全の準備をしていたように見えて、実は「これ」という論理を一つか二つ磨き上げることに徹して、他は用意していなかったんじゃないかと思う
  • ああいうのは、たとえば「あなたの認識が頭から間違ってるんですよ」なんて哄笑してみせたり、麻生総理の細かい粗をねちねちとつつき続けて、討論の雰囲気自体を壊してみたり、やりようはあるんだけれど、鳩山代表は、泥試合に踏み込む勇気というか、「ルールはいつだってひっくり返せる」ということを、交渉のカードとして生かしていなかった気がする。鳩山代表の、いわば「上品さ」を信じた麻生総理の読み勝ちというか
  • 党首討論の場面では、麻生総理は選挙民の方向を向いて喋っているように見えて、鳩山代表は、テレビ局の方向を向いて喋っているように見えた。相手から「言質」をとりに行くやりかた、特定の一言にやたらとこだわってみせるようなやりかたは、あれは「編集」前提のしゃべりであって、「生」向きじゃないと思う

小数点以下をそろえて返す

  • 麻生総理はいろんな数字を並べた。鳩山代表は、たとえば「どんな企業でも1割の無駄が(うろ覚え)」とか、小数点以下を揃えなかった。分かりやすいんだけれど、あれはいかにも感覚的で、何も考えていないように聞こえた
  • 数字には、たとえ嘘っぱちでも数字を出さないと、相手の説得力を無効化できないし、とにかく数字を出しさえすれば、相手の資料を無効化できる
  • 正しい数字を知っているのが自民党だけで、民主側にはそれを調べるすべがないんだとしても、「我が党の調査では…」なんて、とりあえず数字には数字で対抗すべきだったんだと思う。片方が正解で、片方が嘘八百であったとしても、小数点以下をそろえた数字を並べてしまえば平等だから
  • 研修医は、「CRPは?」なんて上司に聞かれたら、「5ぐらいでした」なんて答えるよりも、「5.8です」なんて即答しておいて、あとから「すいません5.2でした」なんて訂正電話入れるほうが、「できる奴」と思われる。鳩山代表はまじめなのだろうけれど、こういうの下手だなと思った

無敵論法の返しかた

  • 麻生総理のやりかた、物事を単純化して、「こういう結論だからこれは成功だと私は認識している」という論理は、最終的な根拠が自分の認識だから、論理の矛盾を指摘してひっくり返すのが難しい。論拠を自らの主観において、「私はこう考えている」と結ぶやりかたは、一種の無敵話法で、ネットにいろんな方面を刺激しそうな文章を書くときには、炎上対策としてよく使う
  • 相手の認識を否定するのは難しいんだけれど、論理の粗さがし自体は簡単だから、「私はこう思っている」論法に対しては、粗を指摘して、「私たちならこうした。もっと上手くいった」とあと知恵をぶつけると、相手は議論に乗らざるを得ない。こういうのはたぶん、おしゃべりの定石なんだけれど、民主党サイドは、どういうわけかこういうやりかたをしなかった。ああいう場所でこそ、すかさず「対案」をぶつけないと、聴衆に「何も考えていない」ように思われてしまう
  • 勝つ論理と負けない論理というものがあって、麻生総理が展開したのは「負けない」やりかた。負けない議論は、その気になればいくらだって逃げをうてるから、まじめに相手をするよりも、たとえば相手の人格を否定するとか、相手を哄笑するとか、積極的に空気をグダグダにして、相手もろとも泥まみれを狙うのが正解になることも多い
  • ああいうときは本当は、相手を無視して、ひたすら過去のスキャンダルについて質問したりしないといけない。正しさ勝負じゃなくて、「相手の黒歴史で笑いをさらったほうが勝つ」という方向に、場のルールを書き換えてしまうやりかた
  • 鳩山代表は、麻生総理に対して「無敵話法使ったら場をグダグダにするよ」というのを、交渉のカードとして持っていないといけなかったんだけれど、それを切ろうとしなかった

議論の応酬にはルールが必要

  • 党首会談で設定されたルール、お互い持ち時間を決めて、発言と、質問とを強制的に交互に行うやりかたは、上手くいっているように思えた。ヤジのやりようがないし、相手の発言を遮ることができないから、観客に優しくてありがたかった
  • あのルールは、あれは昔の掲示板ルールそのまんまだと思う。相手が喋っている間は、それを遮ったり、笑い飛ばして人格否定したり、そういう飛び道具が使えない。ああいう勝負は、それこそ古参のネット掲示板住人が得意そうだなと思った
  • 麻生総理の「○○だから、これは成功であったと思います」なんて意見に対して、鳩山代表が「ということにすると、何か都合がいいのですね? 」なんて返したら、空気が一気に悪くなって面白いと思うし、切り返しかたとして、それは有効だと思う
  • 議論の相手に立証責任を押しつけるやりかた、「そもそも君がこうしていれば、この状況にはならないんだよ」というやりかた、「民主党が邪魔したから自民党のすばらしい政策が廃案に追い込まれた」という論理はたいてい無敵で、これは「Void 論法」といわれた古典的なやりかたの、いわば変法なんだと思う

編集の力

  • 少なくとも生放送を見た限りは、持ち時間は一緒のはずなのに、麻生総理の声ばっかりがよく聞こえた
  • これは論理がどうこう、という問題とは別に、鳩山代表の顔の角度と、マイクの角度が合っていなくて、声が全然拾えていなかったとか、いずれにしても、鳩山代表のほうが不利な展開ではあった
  • ところがニュース番組がこれに編集を入れて、討論の「間」を削除して、お互いの党首が自説を述べている場所だけを放映すると、見事に「かみ合ってはいないけれど対等な議論」に見えた。行われた印象操作は、ごくありきたりのものでしかないけれど、特定の場所を「放送しない」ことの威力はすごいと思った

MIAUニコニコ生放送

  • 途中しか見ていない。ごく一部
  • 演者の音量が一定で、すごく聞きやすかった。党首討論会は、特に鳩山代表と、司会者の人とが、顔を左右に振るたびに音量が激変してひどかった
  • あれは「ニコ生」スタッフに音量調整の専門家がいて、複数のマイクをその場で切り替えて、一定の音量を維持することに、相当気を使っていたんだという。ああいう工夫はありがたかった

「何でもあり」ルールでの戦いかた

  • ホリエモンが出席して、意見が分かれた演者の、ちょっとした瑕疵を指摘して、しばらく離さなかった
  • あれは何というか、議論として「大人げない」んだけれど、どこか総合格闘技のやりかたに似ていた。膠着状態がずっと続いて、わずかな隙ができたら一気に試合が動いて、観客が置いてけぼりにされるようなスピードで決着がつくイメージ
  • ルールなしの自由討論会というのは、たぶんワンチャンスを生かしきらないと、勝ちが拾えないのだと思う。相手のミスを鷹揚に受け止めて、対話を先に進めるのが大人のやりかたなんだろうけれど、ここで手を抜くと、下手すると今度は、自分の瑕疵に食いつかれて、勝ちを持って行かれてしまう
  • 何でもできる「総合」ルールは、どうしてもワンチャンスが全てになってしまう。殴り「あい」とか、議論の「応酬」みたいなのを観客に見せようと思ったら、ボクシングみたいに、選手に許される振る舞いを、ものすごく絞らないといけない
  • 党首討論会は、そういう意味ではボクシングに近く、ニコニコ生放送は、総合格闘技に近かった。ルールが変われば、戦いかたも変わってくるし、ホリエモンという人は、たぶんそういうのを理解していたのだと思う
  • 総合格闘技は、どうしたって「つまらない」というか、マニアでないと楽しめなくなるけれど、自由形式討論というのは、本来そういうものなんだと思う。そこを割り切れないと勝てないし、そういう場所で、「面白さ」に配慮したり、議論は「こうあるべき」なんて理念を持ち込む人は、たぶん生放送では勝負にならない

話し言葉というメディア

  • 演者の名前札を、もう少し見やすくして、できればそれをテキスト表示してくれるとありがたかった。それがどんな人なのか、名前さえ分かれば、今の時代、検索するのは簡単だから
  • 見た目はやっぱりすごく大事だなと思った。議論の席、真ん中あたりにいた人が、お笑い芸人の「ダンカン」に似ていて、コメントは「ダンカン」の文字で埋まった。笑いの対象にされてしまうと、それを言葉でひっくり返すのは恐ろしく難しい。ホリエモンは体を絞って議論に臨んで、あれは好評だった。肥満体のままだったら、議論はそれだけ不利だったと思う
  • 特に「ニコニコ生放送」みたいな、視聴者の意見がダイレクトに帰ってくる場所では、会話で観客を楽しませないといけないし、それをやるには、文章の圧縮率を極端に高めないと厳しい。たくさん喋るほどに、言葉は薄まって、観客の興味は反対側の人に行く。討論会の途中、演者の人が、論文を読むかのように長い話をしておられたけれど、ニコ生は、演者の声とコメントと、両方を見ないといけないから厳しかった。Blog の長さどころかTwitter も通り越して、もっともっと圧縮して、テキスト量を減らさないと、あの場所では厳しく思えた
  • 津田さんの司会は上手で、討論会は混沌とすることなく、分かりやすかった
  • 無編集、生放送は、なんだかんだいっても面白いし、これが低コストでできてしまう現在、流れは必ずこの方向に傾いていくのだと思う。「しゃべり言葉」の力は、これから戻ってくるような気がした。以前のそれとは、だいぶ文化が異なるのだろうけれど