平凡なものをたくさん作る

「すごいもの」を目指した物作りは最初の段階で行き詰まって、たいていの場合、上手くいかない。

「すごい」は相対評価だから、そこにはたぶん「平凡な」先客がいて、 あとからそこに入り込むのは難しい。すごいものが目指したその場所が狭かったなら、 相手に打ち勝って、やっとその場所を手に入れたところで、戦って荒らされて、 価値はずいぶん下がってしまう。恐らくは、投じた労力を回収できない。

量は質に転化する

ある状況だとか、ルールがあって、同じ土俵で比較できる相手がいる場所で、 相手より、漠然と「すごい」ものを目指そうとすると、アイデアの出現閾値が下がってしまう。

「量」を「質」に転化することはできるけれど、たぶん逆は難しい。

たくさんのアイデアを出すことで、偶然すばらしいものが生まれることもあるし、 質の不足を量で補うこともできるけれど、質の高いアイデアを出そうとして、頭の中でいくら頑張ったところで、 力を「溜めた」結果として、すばらしい何かが生まれる可能性は少ない。

必要なのはもちろん、「量」と「質」との両方なんだけれど、あくまでもそれは、 頭の中身を形として外に出してからのお話し。頭から何かをはき出す以前の段階で、 「すごいものを」なんて出口を縛ってしまうと、たぶん「平凡なアイデアが」、「少しだけ」出てくるだけで、 結果として、ものにならない。

大事なのは、「平凡なものを」「たくさん」生み出すことなんだと思う。

すごい場所で平凡なものを作る

競合がたくさんひしめく場所では、そもそも単体としての「すごさ」なんて、数に隠れて目立たない。 平凡であっても、たくさんのプロダクトを生み出して、自分の居場所を「ここ」と宣言しない限りは、 その人の「すごさ」は伝わらない。

世の中にある「すごいもの」というのは、「たくさんの平凡」を生産している人が、 たまたま作った質の高いものでなければ、たぶん「競合者のいないすごい場所」で初めて生み出された、 「平凡なもの」なんだと思う。

平凡な、空気みたいな、登場したら、「それがあって当たり前」と思われるようなものを作れればいいなと思う。 空気に「すごさ」を求める人はいないだろうし、空気がなければ、その場所で人は生きていけないだろうから。

そこにまだ何もない場所に、何か平凡なものが送り出されて、それが「空気」として、 当然のものとして認識される。その場所は、平凡な何かにとっての「すごい場所」であって、 そんな「すごい場所」を見つけた人が、恐らくは「すごいもの」を生む権利を持つ。

生み出されたそのプロダクトは、しばしば平凡な作りをしているけれど、 それより「もっとすごいもの」を目指すのは、たぶん何かが間違っている。

何か平凡に見える先客を見つけたときには、平凡なのに、どうしてそれが、「空気」としてそこにいられるのか、 それがある場所の「すごさ」に目を向けるべきなのだと思う。