狭帯域メディアのこと

物事に対する理解が深まったのなら、本来はたぶん、考えかたを伝達するのに必要な 帯域幅が狭まっていかないといけない。

理解の深さに比例して、学ばなくてはいけないことが増えていったり、あるいはいつまでも 過去の資産を学び続けないと使えないようなメディアというのは、その分野が「エンジニアリング」と呼べるほどには 成熟していないか、あるいはその分野が「メディア」として選択した何かが、そもそも コミュニケーションを担えるだけの能力を備えていないのだと思う。

メディアとしての処方箋

慣れた医師同士が処方を交換するような状況では、 「紹介状」と「処方箋」との境界が曖昧になってくる。

病院を変わる。その患者さんの病名とか、経過とか、詳しく書いた紹介状が来る。 患者さんはたいてい、前の病院でもらっていた薬とか、処方箋なんかを一緒に持ってくる。

本来はもちろん、患者さんを受ける側の医師は紹介状を読んで、その患者さんを診察して、 その医師が患者さんを判断して、新しい薬を処方する。

現場で外来を回しているとき、この流れに乗っかることはほとんどない。 たいていの場合、まずは処方箋を「読んで」、とりあえずは前医の処方を継続して、 ある程度人間関係ができてから、「こうしませんか? 」なんて、処方に自分の判断を加えていく。

処方箋はいろんなことを語る。

紹介状は、もちろん日本語で書けるものなら何でも書ける媒体なんだけれど、 公開情報だから、患者さんにだって読まれてしまう。 「この人はマナーにうるさいから気をつけて下さい」だとか、 「どんな薬出しても、最初は合わないなんて文句言います」 だとか、患者さんをおとしめるようなことは絶対書けない。たまにそのまんま書く先生いたりして、 患者さんの目の前で紹介状の封切って、見せるに見せられなくて冷や汗かいたこともある。

処方箋に記載できるのは、もちろん薬の種類だけ。ところが処方箋は、医師が書いて、医師が読む。 もちろん誰だって読める情報だけれど、医師は医師同士、お互い持っているバックグラウンドの情報量が 極めて多いから、薬の種類しか書いてない処方箋から、いろんなことを読みとれる。

「この人はたぶん、薬の変更にうるさいんだろうな」とか、「この人はたぶん、 いろいろ細かい訴え多くて、薬減らすと怒るんだろうな」とか。

交響楽団なんかで楽器を弾いている人達は、ラジカセから流れるチープな音楽と、楽譜さえあれば、 高価なオーディオセットを使う素人よりも、はるかに多くの情報をラジカセから引き出す。

「処方箋というメディア」の帯域幅は、文章メディアの紹介状に比べて極端に狭いけれど、 「医学知識」というバックグラウンドさえ共通ならば、狭い帯域幅しか使えなくても、 それを通じて莫大な情報をやりとりできる。

「ボタンとハンドル」のコミュニケーション

マリオカート」は、言葉の壁を越えるために、あえてチャット機能を搭載していないのだという。

見知らぬ誰かとレースしながら、同時に会話ができたら何となく楽しそうだけれど、 その機能を使うには、今度は「相手の言葉をしゃべれないといけない」なんて制約がつく。 レースがいくら上手になっても、言葉がしゃべれなければ、コミュニケーションは深まらないし、 言葉がどれだけ上手になっても、レースが下手なら、たぶん上手な人とは友達になれない。

「ゲーム」と「言葉」は、お互いが独立していて、言葉はゲームの本質を担う媒体になっていない。 おしゃべりしながらのレースはきっと楽しいのだけれど、その機能を付加して得られるものは、 もしかしたら案外少ない。

「アクセルボタンとハンドル」というコミュニケーションメディアは、言語というメディアに比べると、 表現の幅は圧倒的に狭いけれど、それでもたぶん、「マリオカート」をやり込んだ人同士なら、 ハンドル操作とボタン2つで、相当深い「コミュニケーション」ができる気がする。

高校生だった頃、ゲームセンターにはナムコの「ファイナルラップ」という、通信対戦ゲームの 先祖みたいなものがあった。今から見れば、本当にチープな画面で、コースだって 鈴鹿サーキットしか選べなかったけれど、当時はずいぶんやり込んだ。

「通信できる」という言葉の意味は、レースをやりこんでいくに従って、だんだんと変わっていく。 始めたばっかりの頃、クラッシュしないでコースを回るのに必死だった頃は、 もちろんコミュニケーションを自覚する余裕なんてないんだけれど、 コースを覚えて、しばらくすると、カーブごと、状況ごとの基本操作を体が覚える。

たとえばそれは、「鈴鹿のヘアピンを1番車で曲がるときには、時速183km が限界」だとか、 「ダンロップコーナーくぐったら、インベタからすぐブレーキ踏まないと、シケインクリアできない」だとか。

1 コインで当たり前のようにクリアできて、そこから先の領域、昨日は200kmでコースアウトしたこのカーブを、 コース取りを変更したら、どこまでブレーキ遅らせられるだろうなんて考えるようになった頃、 はじめて周囲が見えてくる。

前を走る誰かの車が、「ここはインベタだろ」なんて思うところでコース開けてたり、 自分だったらアクセル抜いてるような状況で、フルアクセルでカーブに突っ込んでみたり。 それは自分が知らない、新しいやりかただったこともあるし、実はそれは「作られた隙」みたいなもので、 そこに自分が突っ込んでみたら、フルブレーキされて車潰されたり。

レースゲームはいつの間にか、格闘ゲームみたいな空気になって、見知らぬ人間同士、みんな子供だったから、 もちろん喧嘩寸前の不穏な空気になってばっかりなんだけれど、 あれはたしかにコミュニケーションだったし、お互い隣に座った日本人だったのに、 言葉なんて必要なかった。

「病名」探すことに意味あるんだろうか

内科限定で話をすれば、「医師」という仕事の目標は、「症状を抱えてきた患者さんに薬を渡すこと」。 「治癒」というものは、どうしても最後は確率論だから、それ自体を目標にするのはちょっと厳しい。

治癒も遠いのに、そのはるか手前、「病名」あるいは「診断名」というものの価値が、 やっぱり未だによく分からない。

それが「処方」なら、お互いの医療の知識が増えるほどに、処方箋を通じたコミュニケーション、 相手の医師が考えてることとか、外来での患者さんとのトラブルやら、その回避だとか、 いろんなことが想像できる。「処方」はだから、医療に対する理解の深度と、そのメディアを使った コミュニケーション深度とが比例している。そのことはたぶん、「処方」というものが、 医療を担うメディアとして十分な能力を持っている証拠みたいなものになっている。

ところが診断書に書いてある「病名」をいくらにらんでも、何も浮かばない。

研修医が病名見ても、すごいベテランが病名にらんでも、やっぱりそこには病名しか書いてなくて、 その診断名に至った医師の考えかただとか、苦労だとか、何も浮かんでこない。「思い」を共有して、 前の医師とのコミュニケーションを図るためには、結局のところ、診断という行為を全てやり直さないといけない。

それが病名であっても、処方であっても、メディアとしての言語から見れば、 はるかに限られた単語しか選べない、ごく帯域の狭いメディアであることには変わりないんだけれど、 「病名」というメディアは、何かを極めることで、そこにより多くの情報が載っかっていく、 コミュニケーションを担う媒体として、何かが欠けている。

エンジニアリングとしての医療が成熟していけば、本来理解はより容易になるし、 より少ないリソースで、今までと同じ結果を生めるようになれないと、やっぱりおかしい。 それはたぶん、医療がエンジニアリングとしてまだ成熟していないのか、 医療を理解するメディアとしての「病名」には、そもそもそれだけの能力がないためなのか。

医療というメディアを理解するやりかたとして、「病名」を捨てるやりかた、 病名ごと、臓器ごとの分類ではなくて、「抗生物質が効く疾患」だとか「輸液が必要な疾患」だとか、 「処方」で分類した教科書が書かれてもいいんじゃないかと思った。