公平の対価

倒れてきた建物に挟まれて、身動きがとれなくなってる人にカメラが集まって、動けないその人を、ずっと取材していた。 レポーターの人は携帯電話を差し出して、その人に「今誰かと話したいですか?」なんて尋ねて、電話渡されたその人は、 どこか離れた町で出産を待っている奥さんと、「君と暮らせて幸せだった」とか、そんなことをしゃべってた。

その人はそのまま、カメラマンに助けられるわけでもなく時間は過ぎて、息も絶え絶えになった頃、 人民解放軍の救助隊がその人を助けてた。大腿部の圧迫がひどくて、恐らくは筋の挫滅がひどいんだろうな、 なんて思いながらテレビ見てたら、その人はカメラの前で亡くなった。

バックグラウンドに昔風のメロドラマみたいな音楽が流れて、レポーターの人は芝居がかった仕草で遺体をなでて、 「奥さんの出産もうすぐだと言ってたじゃないですか」とか、しゃべってた。

日本の報道もいいかげんひどいと思うけれど、中国の放送局もまた、相当なもんだなと思った。

公平のこと

中国当局の方針だとかで、地震の映像は本当に悲惨な現場は放映されないし、 テレビでは、連日のように「奇跡の救出」なんて、人民解放軍の活躍をたたえる映像が流れてる。

現場に関係ない、外野からそれ見ると、やっぱり不公平だなと思う。4万人亡くなって、 人民解放軍がどれだけ精鋭そろえたところで、たぶん現場の人的リソースは全く足りなくて、 救助しても助からなかった人とか、そもそも救助隊に目の前素通りされた人とか、 たくさんいるはずなのに。

現場とは無関係な、無責任な立場の人ほど、きっと「公平な事実」を知りたがる。

奇跡的に助かった人。助かったけれど病院で亡くなった人。救助隊が誰か助けたあおりを受けて、 ケガをしたり、最悪亡くなってしまった人。もちろん、再挙から救助の手を待つことなく亡くなった人。 全部をありのままに視聴して、「今後の参考にする」とか、その人が「参考にした」ところで、 その思考が絶対に何かに生きることなんてない、そんな人ほど、考えたがるし、知りたがる。

放送局の人達が、全てをありのままに、上手くいったケース、失敗した、 あるいは手が足りなくて何もできなかったケースを、 そのまんまの頻度で報道したら、現場はきっと、そんな報道を「不公平だ」と感じる。

そもそもが絶望的な状況に、失敗覚悟で命張ってて、「公平な」報道されて、 人民解放軍は失敗ばっかりなんて評価されたら、温厚な自衛隊員でも怒り出す。

投票箱から見える世界

ニュースの流れで道路の話題になって、「道路族」の人達がインタビューを受けてた。

「国民の大多数は、やっぱり道路を望んでる」なんて、 全国民を敵に回すようなことを答えてた。

自民党の元幹事長だったか、やっぱり支持者の集会にテレビを入れて、 「道路の方針は曲げません」なんて、絶賛浴びてた。

ニュースステーションあたり見て、古舘伊知郎の言葉にうなずくような「世間」の大部分は、 たぶん道路なんて望んでないけれど、インタビューに答える道路族の人達から見た世界には、 何だかそんな「世間」なんて、存在しないみたいだった。

実際問題、道路族議員の人達は、テレビの前ではああ言うしかないんだろうなとは思う。

政治家は、選挙で票を集めて、議員になるのが仕事の始まり。どんなにお金をかき集めようと、 たぶん「票」は誰にでも平等。何よりもまず、「票」につながる振る舞いをしないと、議員でいられない。

道路に投じられるお金で生活する人達は、たとえば全国で300万人ぐらいしかいないのかもしれないけれど、 その人達はたぶん、自分たちの仕事が「利権」だなんて叩かれてるからこそ、雨が降っても選挙に出向いて、 自分たちの生活を守ってくれる議員に投票する。

道路族議員の人達は、だから国民の9 割を敵に回しても、残る300万人の支持を勝ち取れれば、 たぶん相当高い確率で、次も議員になれる。

国会議員にとっての「現場」は、国会議事堂よりもむしろ選挙の戦場であって、 そんな「現場」においては、「頼れる300万人」は、頼りにならない残り1億余人の支持よりも、よっぽどありがたいはず。

公平な視点にはお金がかかる

少し前、霞ヶ関キャリアだった人達が外資系企業に転職しているなんてニュースがあって、 年間の報酬が6500万円だとか、インタビューに答えてた。

その報酬は、もちろんその人が官僚だったときよりも高いんだけれど、外資に勤めたその人は、 それだけの報酬を手にして、はじめて「国家のために働く意志を持った」とか、今は 外資系企業にいながら、それでも日本の国益のことを思いながら働いているとか、そんなことを 答えていた。

たぶんこの6000万円を超えたあたりが、「公平」の価格なんだと思う。

マスメディアは偏る。誰だって自分が見たいものしか見たくないし、メディアの人達もまた、 自分たちが撮影した「絵」を販売して食べてるんだから、お金も支払わないで、 彼らに「正義」とか「公平」を要求するのは筋違いだし、たぶんたいていの場合、 たとえば医療従事者が「公平だ」と思った報道は、きっとそれを見て「偏ってる」なんて不満に思う人を作り出してる。

政治家だって偏る。あの人達はもちろん、選挙に落ちたらただの失業者だから、 それがどんなに公平で正しいことでも、選挙を支持してくれる人を敵に回すようなことは、 口が裂けたってしゃべれない。

NHKみたいな国営放送ですら、たぶん「偏り」から自由になれない。彼らだって視聴率が気になるだろうし、普段誰もほめようとしないから。

公平だけ要求するのに手を貸さない、正義の志だけは高いのに、 自分たちのことを「マスゴミ」とかけなすのに、 取材お願いしてもむげに断るような人達の味方になんて、絶対にならないだろうなと思う。

「公平な視点」というものは、あらゆる「現場」に対して無責任で、無関係な立場になれないと、たぶん身につけることはできない。マスメディアの人達とか、政治家の人達に、超越的な、全国民にとって公平な視点を持ってもらうためには、だから視聴率とか、罵倒の声とか、 ごく遠い世界の雑音にしか聞こえないぐらい、高い報酬支払うしかないんだと思う。 それこそたぶん、一人あたり6000万円ぐらい。政治家に「公平」求めようと思ったら、 もちろん選挙で落ちたときの収入も。

「公平な報道を」なんて、ありえない「公平」を振り回すやりかたは、なんかウソっぽい。 「自分たちにもっと偏向した報道を」なんて求めるやりかた、 露悪的だけれど、「公平はありえない」から出発するやりかたしたほうが、 何だかよほど公平に近い気がする。