17時になったら上司と挿管

ずっと作っている研修医向けの本に、「喘息の患者さんを受け持ったら、 その日の17時に挿管の適応を決定する」という項目を入れることにした。

気管内挿管みたいな、生き死にに直結するような手技の適応は、医学的にでなく、むしろ社会的に 決定されるべきだから。

適応は社会が決める

「酸素濃度が下がったら挿管」とか、「意識状態が悪くなったら挿管」だとか、 医学的に正しく記載された教科書には、こういう治療を決断するときには、 まずは患者さんの状態を把握して、それから治療の適応を決めるように書かれている。

とりあえずこの年齢になるまで、 どうにか大きなトラブルなく来たけれど、 自分の積んできた判断をふり返って、物事を医学的に判断した記憶というのが、この数年間ほとんどない。

気管内挿管のような、生命の維持には欠かせない、その反面、それが行われる患者さん自身にも リスクが発生するような治療についての判断は、「医学的に」ではなく、 むしろ積極的に、「社会的に」決定されるべきだと思う。

それはたとえば、病棟スタッフの脳裏に帰宅時間がちらつく「17時」であったり、 あるいはまた、「今日は当直あけだから家でしっかり寝たい」 日には挿管の閾値を下げてみることだったり。

判断をねじ曲げるもの

医療というものが、教えられることで再現が可能な「技術」である以上、 ある患者さんに対して、為されるべきことがしっかり行われていれば、それは「過失」にならない。

トラブルのほとんどは判断の間違い、あとからその状況をふり返って、「やるべき事が行われていなかった」と 判定された状況であって、タイミングはあまり問われない。そうした「間違った」判断のほとんどは、 「医学的な」判断が、社会的な圧力でねじ曲げられることから発生する。

  • その日に上司が叱りとばした下級生は、患者さんの具合が悪くなっても、それを上司に伝えられなくなる
  • 帰宅時間も迫った17時58分頃に、「患者さんがちょとだけ苦しいそうです」なんて連絡を受けた主治医は、 しばしば「ちょっと」を恐ろしく過小に評価して、急変の徴候を見逃す
  • 「これから飲み会」だとか、自分が主催する勉強会を目前に控えた状況において、 患者さんの症状はしばしば「安定している」と判断されて、後を引き継いだ当直医は、 しばしば急変コールで真っ青になる

どれだけ「医学的に」正しい判断を下したところで、社会的なバイアスからは逃れられない。 正常値には幅があって、それはしばしば、間違った判断を補強する材料として使われてしまう。

医学的な決断、抗生剤を使うだとか、気管内挿管を行うことだとか、患者さんに必要な処置を、 社会的なバイアスから自由な立場で行おうと思ったなら、「バイアスのかかりやすい状況」を あらかじめ組み込んだ、社会的な適応基準を作ったほうが、結局のところ、 患者さんにとって正しい判断につながる。

軽い人ほど重く診る

トラブルから自由でいようと思ったら、だから「重い」決断、気管内挿管を行って人工呼吸器をつけることなんかは、 「社会的に」決断されるべきだと思う。患者さんが苦しそうだからとか、酸素濃度が下がったから、といった 理由でなく、むしろ「もうすぐ外科の上司が帰りそう」だとか、「明日は当直だから今日は寝ておきたい」だとか。 挿管みたいな手技は、危険を伴うからこそ、万全の状況を作れないタイミングを避けるために、 いかにも下らない、「社会的な」理由を、もっと積極的に援用すべきなんだと思う。

重たい病気の患者さんというのは、やるべきことさえ行われていれば、どれだけひどい対応を行ったところで、 まずトラブルにならない。

具合の悪い患者さんというのは要するに、「医学的な正解が明らかな人」だから、 主治医がどれだけひどい態度を行おうが、どれだけ適当な根拠で判断を下そうが、 同じ医学知識を持った人なら、その患者さんに対して行うことは、結局変わらない。

怖いのはむしろ「正解のない人」、症状としては軽くて、そのくせ夜中とか、 早朝4時に歩いて外来にやってくるような患者さんで、 「医学的には」何もしないで帰すことが正解になるような人たち。

こういう人はたいてい、患者さん自身が想定している正解というものを持っていて、 それから外れた対応をするとトラブルになるし、あとから実は病気が隠れていたりしたら、 あとから修正が効かない。

「いいお医者さん」のこと

個人的にはだから、軽症そうに見える人ほど、「ようこそお越し下さいました大変だったでしょう」みたいな 態度を心がけるようにしている。どう頑張ったって、「何しに来たの?」みたいな本音が透けちゃうのは 隠しようがないから、せめて外面だけでも丁寧に見える態度を目指す。

「いいお医者さん」としてのありかたというのは、サービス精神なんかじゃなくて、 むしろ保身だとか、臆病さだとか、トラブルを避けて、なるべく楽して働きたいだとか、 そんな後ろ向きな努力の帰結としてたどり着くべきだと思う。

自分たちの仕事は、お客さんから「お前のこの対応はよかった」だとか、 「お前のここが気にくわない」だとか、そんなフィードバックが得られる機会が極めて少ない。

医師としての振る舞いかたというのは、どうしたって独善的なものにならざるを得ないんだけれど、 理念先行で「いいお医者さん」を目指してしまうと、「偽善」に「独善」が重なって、なんだか救いようがない。

トラブルを避けたいとか、訴訟から無縁に過ごしたいだとか、 出発点は、人なら誰でも持っている「わかるわかる」的な価値から始めないと、 その人の積んできた「独善」は、誰の役にも立たないような気がする。

本題

2009病棟ガイド」の内容を、 そんなわけで40箇所ほど改訂しました。

医学部分には大きな変化はありませんが、一部の手技について、判断の基準に 追記を行っています。

書けば書くほど「出版」が遠のいていくような気もしますが、だいたい内容が固まりつつあります。 「LaTeX 入稿が可能」、 「爪見出しの追加が可能」で、商業出版を考えて下さる 業者さんがいらっしゃいましたら、ぜひ相談させていただければ幸いです。。