「書かれたルール」と「本当のルール」

ルールブックに書かれたやりかたと、そのゲームに勝つためのやりかたとはしばしば異なって、 ゲームはだから、「ルールを守る」のが好きな人と、「ゲームに勝つ」のが好きな人と、 たいていは2つの文化が衝突する。

「イヤーノート」という教科書

「本がルールを書き換えた」先例がうちの業界にはあって、医学生ならたいてい誰もが持っていて、 医師ならたぶん10人が10人、その本を「クソだ」と断じる、「イヤーノート」という教科書がある。

医学部というのは医学を学ぶ場所だから、医学生の教科書というのは、 もちろん「医学」が体系的に、権威ある先生がたによって記述される。 教科書には、医師として知っていなくてはならないこと、診療に大切なことが中心に記載されて、 みんなそれを読んで勉強する。

ところが自分たちには「国家試験」というものがあって、これに合格しないことには、仕事が始まらない。 国家試験も試験である以上、「誰もが知っていなくてはならない知識」を問題にしてしまうと、 簡単すぎて、誰でも解答できてしまうから、序列をつけられない。国家試験はどうしても、 主流でない分野、重箱の隅をつつくような問題をたくさん混ぜる必要があって、 何とか成績に序列がつくよう、差が生まれるよう、出題者が工夫する。

そうした「工夫」が重なった結果として、「いわゆる教科書」をまじめに勉強することと、 国家試験に合格すること、「ゲーム」が提供するルールブックと、ゲームが規定する勝利との間に、 距離が生まれてしまった。

ゲームの本当のルール

「医師になる」というゲームにおいては、ルールブックには「医学をきちんと勉強すると医師になれる」と 記載されているのに、実際には、国家試験に合格しないと、医師になれない。「いわゆる教科書」をいくら 必死に勉強しても、身につくのは「誰でも知っていなくてはならない知識」であって、国家試験に出題されるのは、 そういう知識ばっかりではないものだから、ルールをまじめに守った人は、国家試験ではしばしば損をする。

誰もが知っていなくてはならない知識をどれだけ詳細に理解できていたところで、 知らない問題は、やっぱり答えられない。医学というのはそこまで成熟した科学じゃないから、 ある分野を深く理解できたなら、他の分野を推測するのに、その「深さ」が役に立つとか、 そういう場面は少ない。

「医師になる」というゲームのルールを、素直に「国家試験に合格すること」と規定し直した人たちがいて、 「イヤーノート」という教科書が出版された。編集方針は明快で、「重要だけれど誰もが知っている知識」は省かれて、 過去の問題に登場した領域だとか、どこかの大学で卒業試験に選ばれた症例なんかはいち早く詳しく紹介されて、 病院の上の先生がたは、学生がそれを読んでるのをみては眉をひそめた。「それ読むと馬鹿になるぞ」とか、よく怒られた。

教科書がルールを書き換える

「いわゆる教科書の正しさ」と、医学生が当時も今も直面している「国家試験という現実」との間には、 どうしようもない解離があって、「イヤーノート」は不完全だったけれど、その間隙を上手に埋めた。 最初の頃は同人誌みたいな本だったけれど、今では普通に一般書店に並んでいて、 たぶんほとんど全ての医学生が、あれを購入していると思う。

医師国家試験というのは資格試験だから、「全員が間違えた問題」は、不適切問題として、 正解から除外される。「イヤーノート」はたぶん、昔も今も、間違っている記載が多いだろうけれど、 全員が同じ教科書で勉強すれば、その教科書がよしんば間違えていようが、その間違えは、 国試においては「正しく」なる。

「読むと馬鹿になる」教科書は、今ではもう、試験問題を作った人に、自らの頭の中身を問うための武器にすらなって、 「情報の共有」と「ルールの書き換え」という、あれはボトムアップで世の中を書き換えた、まれな成功例なんだと 今でも思う。

「診療」というルール

今自分が直面している「診療」の現場においてもまた、「ルールブック」に記載されている医師の振るまいと、 そのゲームが規定する「勝利」、患者さんの治癒と満足との間にギャップがあって、たぶんみんな、 苦労している。

今はいろいろ進歩して、40分もあればフルコースの血液検査ができるし、 頭からつま先までCTを切るのも、せいぜい15分あれば終わる。 患者さんがいて、その人の骨格模型を3D で作るのは30分で行ける。

「武器」としては相当に高性能な、こういう診療機械は、研修医でもサイン一つで自由に使えるのが病院という場所なのに、 今の「研修医マニュアル」に書かれているのは、やっぱり昔ながらの、 お話を聞いて、どうせ聞こえもしない聴診器を全身に当てて、なるべく検査をしないよう、 しないよう、「それをオーダーする奴は馬鹿だ」みたいなやりかた。

一方では「間違えるな」と言われ、機械の助けなしには診断不可能な怖い病気が羅列されて、 そのくせ「間違えないための道具」が目の前にいくらでもあるなかで、機械はいつでも暖められて、 医師に使われるのを待っているその中で、それを「使うな」と、「研修医マニュアル」は教える。 2009年7月出版の教科書でもそのへん変わっていなくて、やっぱりおかしいと思う。

症状に応じて検査を販売する

「診療」というゲームの中にある、「研修医」というサブゲームのルールブックには、 「患者さんの症状に応じて、適切な検査を販売せよ」と書いてしまえば、それでいいんじゃないかと思う。

やっていることは単なる「御用聞き」であって、もはやそこには「判断」すらないけれど、 研修医に「判断」を要求して、正しい判断に援用すべき検査機械は使用を禁じられて、 もちろん「分からなかったら上司をコール」なんて必ず書いてあるんだけれど、 気軽に上司をコールできるような施設なら、そもそも「研修医マニュアル」なんて必要ない。

内科とか外科、救急がハイリスクで、そこを目指す人が減って、いろんな声が上がって、 人はそれでも、やっぱり減る。

こういうのもたぶん、「ルールブック」と「本当のルール」との間に解離があって、 研修医にはその間隙がよく見えるのに、そこがいっこうに埋まる気配がないものだから、 間隙が深い分だけ、それが「リスク」に見えるんだと思う。

どれだけ精緻なガイドラインが作られたところで、あるいはすばらしい研修システムが 整えられたところで、研修医の振る舞いを、顧客満足に接続できない、今のルールブックが 変わらない限り、人は増えてこない。

馬鹿な本作りたい

それを読んだ上の先生がたが、「こんなもの読むと馬鹿になるぞ」なんて怒り出すようなものが 作れたらいいなと思う。

「ゲームに勝つ」ことを志向したやりかたは、「ルールを守る」のが好きな人から見れば 間違ったやりかたで、両者の間隙が深いほど、相手が「馬鹿」に見えてくる。

その「馬鹿」が顧客の方向に向かない限り、同業者がお互い「馬鹿」とのの知り合う情景というのは 決して悪いものではないと思うし、結局どちらの「ルール」が正しいのか、それを決めるのは、 最終的にはお客さんなんだから。