流れの空白に呪いが生まれる

昔住んでたマンションの近くに、「お店が必ず潰れる場所」があった。

そこは交差点の角地にある土地で、2本の道路に面していて、 30人ぐらいは入れる店舗と、そこそこ広い駐車スペースとを備えていた。

駅からも、何とか歩いていける距離にあって、道路をはさんだ目の前には、 10階建ての新築マンションがあって、若い家族がたくさん住んでいた。 人通りもそこそこあって、車の往来も多かったから、店舗を構えようと思ったら、 その場所の条件は決して悪くなさそうなのに、そこに店を出すと、せいぜい数ヶ月で閉店していた。

マンションには2年ぐらい住んでいたけれど、その間だけでも4回ぐらいお店が変わって、最近通ったら、 また知らない店に変わっていた。

流れに乗ると入れない場所

その場所は、人通りが多いのに、入りにくかった。

自動車の通行量は多いんだけれど、慢性的にプチ渋滞状態になっていて、 反対車線から店に入ろうと思ったら、自動車の流れを止める覚悟がないと難しかった。

店に面した車線にいても、そこには街路樹と、結構広い歩道があった。近所のマンションには子供さんがいて、 歩道を自転車で移動して、街路樹の陰から飛び出してくる。店に入るには、自動車の流れを一瞬止めて、 見通しの悪い街路樹の陰から、自転車に乗った子供が特攻してこないことをお祈りしながら、 車の流れを切らないように、一気に駐車場に突っ込むしかなかった。

お店は目の前にあって、駐車場もすいているのに、そのお店に入るための「流れ」というものがそこにはなくて、 車の流れを断ち切って、一定の確率で飛び込んでくる子供、という障害物を乗り越える必要があって、 そこそこおいしいお店が入っていたときであっても、そこに車を入れるのには覚悟がいった。

交差点の交通量がもう少しまばらであったなら、「流れ」を無視できて、余裕を持ってお店に入れただろうし、 歩道がなければ、あるいは街路樹を切って、せめてお店の入り口周囲だけでも、見通しがもっと良くなれば、 子供の陰におびえる必要もなくなったのだけれど。

郊外の店舗スペースみたいに、そもそも歩道を潰してしまって、道路と駐車場との境界を潰してしまってかまわなければ、 その場所はもっと栄えてもいいような気がするんだけれど、歩道だとか街路樹の配置、道路の混み具合みたいな、 いろんな要素が絡んだ結果、一見理想的なその場所は、きれいな町並みに隠されて、呪われた場所になっていた。

流れのよどみに呪いが生まれる

SNS で、こんなコメントをいただいた。

呪いというものは本来、個人の言動行動あるいは作ったものから生まれるものだと認識していたのですが、 この例を呪いと見なすことでいろんなことが理解できるようになるなあと感じます。
呪いというのはむしろ、それをこうむる主体ではなく、それを取り巻く構造のあたりに おぼろげに浮かび上がるものなのかもしれません。

たしかにそんなかんじだな、と腑に落ちた。

呪いだとかいじめというものは、昔は「悪意をドライブするための技術」だと考えていたんだけれど、 「いじめに参加した人間に、悪い奴はあんまりいない」というのも、どうも一面の真実らしくて、 実際問題、ものすごい深謀遠慮を巡らすような「いじめの黒幕」みたいな学生は、そんなのがいたとして、 たぶんもっと楽しいことに自分の時間を使うような気がする。

「呪い」みたいなものは、どろどろした思いが生み出すというよりもむしろ、 「正しさ」だとか「きれいさ」みたいな、集団が、同じ価値へと収斂することを望む気持ち、 同調を強要する空気みたいなものが、コミュニティに「流れ」みたいなものを生み出して、 その流れから取り残された場所だとか、人に対して、自然発生するような気がする。

「いじめをなくすための話しあい」みたいなものは、だからコミュニティ内部での、力の流れが 変化しない限り効果が薄いし、理性的な、平和なやりかた以外にも、流れを変える方法はいくつかあって、 いじめの対象となった側も、あるいはいじめる側と認定された側とも全然関係のない誰かに、 ちょっとした変化が生じただけでも、あるいはいじめというものがなくなってしまう、 という事例もあるんじゃないだろうか。

車の流れと違って、人の流れというのは目に見えないし、街路樹で邪魔したり、歩道を作って 流れを変えたりといった操作はやりにくいけれど、個人に何かを吹き込むのでなく、 集団になった人の流れを読んで、それを操作することができるのなら、 そういう技術から、いろいろ面白いことができそうだなと思った。