太い言葉のこと

田中角栄の秘書だった早坂茂三のお父様が亡くなったとき、角栄はすかさず100万円を包んだ封筒を早坂に渡して、 こんな言葉とともに、彼を故郷に送り出したんだという。

坊主は金さえドカンとやれば何でもしてくれる。
おまえは19で国元を離れた身だ。一切合切、お袋さんやお姉さん、番頭の指図に従え。口出しするな。
通夜の客にはひっくり返るほどごちそうしてやれ。オヤジの功徳になる。
直会を寺でやるなら部屋をがんがん暑くしろ。客に風邪を引かせるな。
ガス中毒になっても困るから、外の空気も入れろ。
女は帰りに花を持っていく。その新聞紙も用意せよ。
葬式をきちんと仕切れば、世間もおまえを一人前と認め、扱ってくれる。

まだ若かった頃の「突破者」宮崎 学 氏が、当時対抗していた新左翼学生の集会を 襲撃するとき、部下であった学生に、こんな指示を出したんだという。

突入したらまず石を投げろ。
投げ終わったらただちに突っ込め。
至近距離まで突っ込んで、相手の腹を突け。
絶対に退くな。退いたらやられるぞ。

極真空手創始者大山 倍達は、作家の夢枕獏に「強さとは?」と尋ねられて、こんな答えを返した。

強いとは、両手の親指で逆立ちができることです

親指だけで逆立ちができるなら、その人は、相手の耳だろうが鼻だろうが、 片手でそれをむしり取ることができる。耳や鼻をちぎられて、心が折れない人間はいないから、 親指で逆立ちができる人間は、「強い」のだと。

漠然と「太い言葉」というのがあって、何か未知の状況にあって、そんな「太い言葉」をベテランから授かると、 何か安心できるというか、なんだか自分も「太く」なれたような気分になって、大きすぎて途方もなかった問題が、 少しだけ、何とかなりそうな気がしてくる。

「太い言葉」の中には、たとえば「そもそも葬式とは」だとか、「そもそも闘争とは」みたいな原則論は少なくて、 具体的な、理屈抜きの「こうしろ」というアドバイスが、ゴロッといくつか無造作に置かれているだけだし、 その言葉に従うと、いったいどういうメリットがあるのか、理屈では全然見えてこないんだけれど、 聞くとなんだか「太く」なれて、不思議と安心感がある。

宮崎学にしても、このときの田中角栄にしても、読者として書かれた文章を読む今ならば、 決してすごいことを言っているわけではないし、ここだけ取り出しても、今ひとつその迫力は伝わらないけれど、 同じような未知状況に対峙した誰かに対して、じゃあ自分がなにか、こんな太い言葉を相手に送れるかと言えば、 無理な気がする。

ある状況にぴったりとはまった、「アハ」と手を打ちたくなるような、 そんな気の利いた「名言」を紡げばいいのなら、頭の回転が十分に早ければ、 たぶんそんなに難しくないのだろうけれど、抽象論抜きの、具体的で、 なおかつ本質みたいなのをつかんだ、具体で絶対を表現するような、 こうした太い言葉をそこに置くためには、いろんな修羅場をくぐり抜けて、なおもそこから帰ってくる、 そんな通過儀礼が必要で、リーダーをやる人は、「ここ」という状況で、 そんな言葉を発する義務があるんだろうなと思う。