腐った立ち位置のこと

「かっこわるさ」というラベルにはすごい力があって、一度「それはかっこわるい」というラベルを貼られた考えかたは、 たとえそれが正解であっても忌避されてしまう。

「正しい」のに「かっこわるい」、そんな何かをみんなが避けると、それはもしかしたら、破壊的な結果を招くことになる。

昔の「左翼」はかっこよかった

今60歳ぐらいの人達が大学生だった頃は、左翼の考えかたは進歩的な立ち位置で、 左翼思想とか、あるいは集団組んでデモ行進することであるとか、それは「かっこいい」ことだった。

市民団体とか住民参加、今は否定的な意味でしか使わない「プロ市民」なんて言葉も、 最初はたしか、肯定的な意味。どこかの市長さんだったか、「これからの市民は、 積極的に住民参加するプロであってほしい」だとか、そんな流れで使われた言葉。

「左翼」や「市民」はかっこよくて、だからずいぶん広まったけれど、いつの間にかそれらは腐って、 今はなんだか、気持ち悪くてかっこわるくて、心情的に正しそうでもとりあえず臭そうだから近づきたくないような、 「サヨク」だとか「シミン」だとか、その言葉が本来持っていたかっこよさとは無縁の何かに変化した。

自分たちが学生だった1990年代、それでも進歩的な学生というのは左翼の振る舞いするのが常識で、 自分みたいに自治会やりながら「左翼嫌いです」なんて言う人間は、ものすごく珍しかったのだけれど。

「腐敗」したのは、だからまだそんなに昔のことじゃないはず。

立ち位置のライフサイクル

たぶんどんな立ち位置も「ライフサイクル」に相当するものがある。

誰かが考え出した立ち位置は、最初は新しいもの好きの、怠惰だけれど能力がある人達に見いだされる。 新しい立ち位置に乗っかった人達は、その考えかたを自分の属するコミュニティに無理が来ないように アレンジして、新しい振る舞いかたを身につける。その振る舞いはいろんな人に 観測されて、「正しさ」という形で理解され、広まっていく。

「正しく」あることはだから、必ずしも「理解している」こととは一致しない。

新しい立ち位置を支持する人が増えてくると、たぶんコミュニティには序列が生まれる。 「正しい」人達は、しばしば「理解している」人達よりも多くの支持を集めて、勤勉な人達は、 だから勤勉に「正しさ」を積んで、序列を上位へと上がっていく。

理解の結果であったはずの「正しさ」は、しばしば「目指すべき目標」として共有される。 社会は常に変化する。変化を拒む「正しさ」は、外から見たとき、もしかしたらすごく奇妙に見える。

コミュニティの世代交代が上手に進むと、たぶん「正しさ」は社会に応じて再構築されて、 コミュニティはかつての勢いを取り戻す。世代交代が失敗して、「理解」を目指す人が少数派になって、 「正しさ」それ自体を目指す人が一定以上に増えたとき、その立ち位置はたぶん、 そのまま「腐って」しまう。

「かっこわるさ」を作る勤勉な人

「正しさ」が好きで勤勉な人達は、たぶん勤勉だからこそ変化を拒んで、 自ら属する立ち位置を腐らせる。

勤勉な人に支持された、「正しさ」につながる振る舞いは、 年月とともに立ち位置の腐敗に巻き込まれて、それをみんなが避けるようになってしまう。

誰も殺しあいなんてしたくないのに、「平和」ってなんだかサヨクっぽくて かっこわるいから、「戦争はやはり必要だ」なんて、心にもない考えかたが流行する。

本当は、団結して何かやるのが正解なのに、団結ってなんだかシミン団体みたいで かっこわるいから、団結回避してばらばらに行動して、結局有効な手が打てない。

「9 条の会」とか、もう平均年齢70歳にさしかかってるらしい。 70も超える勤勉な人達が、若い頃に築き上げた「正しさ」抱えて今まで引っ張れば、 どんなに優れた価値であっても、やっぱり腐る。

腐った立ち位置が、大切な言葉とか、振る舞いなんかを抱え込んで、立ち位置もろとも腐らせる。

「正しい」言葉を使わないで「正しい」振る舞い目指すのは難しい。

手つかずの言葉、「共有」とか「集合知」とか、腐ってないから「かっこいい」んだけれど、 それだけではやっぱり足りない。たまには「平和」と「団結」、使ってみたい。