暫定税率のニュースを見た

ガソリンの暫定税率がまた復活することになって、「安価なガソリンは今日まで」なんて、昨夜のニュース。

いろんな立場の政治家が,インタビューに答えたり、記者会見を開いたりしてた。

気がついたことのメモ。

「笑顔」は難しい

そもそも暫定税率の問題自体が、国会議員から見たらたいした問題じゃないのかもしれないけれど、 報道されてた議員の人達は、なんだか「見られる私」を意識して振る舞う人が少なかった印象を持った。

暫定税率復活の審議をするときには、民主党の若手が、会議室を取り囲んで 採決を阻んでた。自民党の河野議長は、その間隙を突くようにして議場に入って、 採決を成功させた。民主党菅直人議員は、「国民不在の投票だ」とか、外で叫んでた。

2 人とも笑ってた。

  • 河野議長はずっと笑ってた。河野議長はたしかに民主党の裏をかいたし、 民主党がねじ曲げた議事運営を「正常化」できたわけだから、笑いたい場面ではあったのだろう
  • 民主党菅直人議員も笑ってた。議事は負けたけれど、結果として自民党に大打撃を与えたわけだから、 民主党としては笑いが止らなかったはず

政治家同士のやりとりならば、たぶん二人とも、笑顔に足るだけの理由を持っていたのだろうけれど、 暫定税率は、「国民に負担を求める」問題。テレビカメラの向こう側にいる人達はみんな怒ってて、 この状況で「笑顔」を見せるためには、よっぽどの大義を持っていないと難しい。

相手にしている「世間」が大きくなる程に、たぶん笑顔を出せる機会は減っていく。 国会議事堂レベルの世間なら、あるいはたぶん、議員の人達は笑えるんだろうけれど、 国家という世間を前にしてもなお、笑顔を出せる議員というのは、よほどの覚悟の持ち主でなければ、 やっぱりたぶん、「国民から見た私」に対して、自覚が乏しいんだと思う。

立場は現象として理解すべき

民主党自民党も、お互いの立場に「無責任だ」とか「自己否定だ」とか、 ラベルを貼って攻撃してたけれど、なんか泥仕合だった。

立場というのはたぶん、地震だとか台風みたいな「現象」として考えないと、 建設的な議論ができない。

自分と異なる立ち位置の人達をつかまえて、「悪い奴ら」だとか、 「正義に反する」とか、立証不可能な、気分だけのラベルを貼り付けてしまうと、 議論は泥沼化してしまう。

立場はだから、それ自体を論じるのでなしに、「立場という現象が生み出す何か」を 測定することで、はじめて比較が可能になる。

お互いの立ち位置とか考えかたみたいな「現象」を、経済効果で論じるやりかたは、 ちょっと前の小泉政権とか、意識して使っていたような気がする。生の「お金」の話こそ 少なかったけれど、政治家の行動原理は、「正しさ」とか「円滑な議事運営」なんて、 現象それ自体を描写する言葉じゃなくて、「政策がもたらす経済効果」みたいな、 現象が生み出す結果が引き合いに出されていた。

暫定税率の問題についても、自民党の人達は、「価格の乱高下で、国家は○億円失った。 これは民主党の責任だ」なんて攻撃もできたはず。やられた民主党だって、 数字を突きつけられたなら、その計算方法を批判して、 「ガソリンの値下げを行うことでこれだけの経済効果が発生した」なんて 数字で反証しないといけない。

お互いたぶん、仮定に仮定を重ねた数字ではあるけれど、両者が計算方法をオープンにするならば、 議論はすごくシンプルになる。富の総和が大きくなる振る舞いを政府が選択するならば、 究極的にはみんなが豊かになるはずだから。

「相手よりまし」というやりかた

「自分たちこそは最高だ」という立ち位置と、「相手よりはましだ」という立ち位置とがあって、 今の政局は、自民網も民主党も、後者ばっかり狙っている印象。

ちょっと前の政府は、むしろ「自分こそが最高」なんて立ち位置を好んで、 問題を単純化して議論することを好んで、そんなやりかたは実際に 大きな効果を生んで、支持率につながっていた気がする。

今の政府だって、当時のノウハウ引き継いでるから、シンプルな議論を行うやりかたの効果は 熟知しているはずなのに、今はなんだかグダグダした議論。 自民党民主党も、「自分たちは相手よりまし」だという立ち位置を狙ってて、 「自分が最も優れている」という立ち位置を狙うことを、最初から放棄している。

今の政局は、もしかしたらそれだけ泥沼で、誰がやってももううまくいかないのかもしれないし、 あるいはそんな「最高の自分」を狙うためにはすごい勇気が必要で、それをやりきれるだけの度量を 持った政治家は、今の表舞台にはいないのかもしれない。

比較の対象もないままに、 「俺は最高」なんて叫ぶのは、たとえ政治家であっても、きっと怖いんだと思う。 その声を聞くであろう「民意」なんて、探したって全然見えなくて、信じるしかないんだから。

問題の定量と責任の可視化

シンプルな議論に必要なのは、「怒りの定量化」と、「責任の視覚化」。

国民が「どれだけ」怒ってるのか、政治家はその人なりの定量手法を公開して、 その怒りを向けるべき相手が誰なのか、政治家はやはり、自らの思考経路を公開して、 攻撃対象をはっきりさせないといけない。

全てを明らかにすれば、あとは単純化アルゴリズムの優劣を比較するだけだから、勝負は簡単になる。 支持が集まれば、攻撃を向けた相手は完膚無きまでに叩きつぶされるし、 支持が得られなければ、もちろん政治生命を失ってしまう。完勝できるけれど、 負けたら潰されるやりかた。

怒りに対して判断を留保して、自らもまた、その気分に乗っかって、 複雑な問題を「複雑」で「難しい」と思考停止するのは、判定勝ちを狙うやりかた。 感情レイヤでは親しみやすくて、政治レイヤで敵を作らないこんなやりかたは、 だから負けないんだけれど、勝つこともまたできない。

政治と格闘技は違うけれど、「KO 勝ち」狙わない選手ばっかりになったら、 やっぱり政治そのものに対する支持を失ってしまうような気がする。

もっとも「それ自体」が狙いなら、あるいは全て、現政府の思惑通りなのかもしれないけれど。