後期高齢者医療制度がよく分からない

外来で使えるお金が、月に6000円までに制限されること。 患者さんを何もしないで看取った場合、国から2000円の「ご褒美」がもらえること。 入院した患者さんの扱いは、よく分からない。

後期高齢者医療制度が始まって1ヶ月が経ったけれど、現場の理解だって、まだこの程度。 これから起きる問題を見極めようにも、それ以前の混乱が大きすぎて、まだ外来には何も伝わらない。

現状

75歳になった人は見殺しに」なんてメッセージが力強く伝わるこの制度は、 だから全然普及していない。

今はまだ移行期間だからなのか、患者さんは旧制度と新制度、どちらか一方を選択できて、 地元医師会も「もう少し様子を見ましょう」なんて、外来主治医制度に名乗りを上げていない。

ソフトウェアのアップグレードに似ている。「人柱」になる人達がまず試して、 その制度が「いい」ものなのかそうでないものなのか、見極めがつくまでは、 普通の人は怖くて手を出せない。

うちの地域にはだから、この制度を利用するお年寄りはいない。今のところは旧制度のまま。 まず間違いなく全国同じだろうから、 たぶんどこかのタイミングで、「新制度の利用を促進してください」なんて、お役所から指導が入る。 そのとき誰が先陣切るのか、全然分からない。

ルールは悪用して理解する

ルールというのは、それを「悪用」するやりかたを考えてみると、理解が深まる。

後期高齢者医療制度の基本は、定額支払制度。患者さんに大量の薬を出しても、 病気になっても何もしないで放置しても、支払額は同じ。何か検査が必要で、 それやると月額6000円超えるときでも、支払いは同じ。どこか別の医師に 患者さんを紹介しても、「6000円」の取り分は、最初に主治医を名乗った医師のもので、 あとの施設に入るのは、出来高分のお金だけ。

こんなルールの下で「儲けを最大に」なんて考えるなら、まずやるべきは患者さんの囲い込み。

とにかく高齢の患者さんに片端から声をかけて、自分を「主治医」として認めてもらう。 これで人数分、6000円の収入が確保できる。新制度の下では、高齢者から得られる 収入は、実質これだけになる。

収入を得たら、あとは支出を抑えるやりかた。

削れる薬は全て削る。検査はもちろんやらない。「検査してください」なんて頼まれたら、 「うちではできない」なんて突っぱねて、「検査をよろしくお願いします」なんて、 近くの大きな病院に、検査だけをお願いする。

心不全の患者さんとか、閉塞性動脈硬化症の患者さんとか、元々の薬価が高い人達は、 もしかしたら最初から「主治医」を断られるかもしれない。薬止めたら悪くなるの 見えてるし、どんなに安く抑えたところで、月6000円ではそもそも足らないから。

最善手はたぶん、自分の施設で「主治医」だけもらって、検査は近隣施設、 一定期間ごとに入院依頼を行って、投薬はそのとき2ヶ月分とか、入院を依頼した 施設で出してもらうことなんだろうけれど、そんな「ずる」をどこまで見逃してもらえるのか、 今の段階では分からない。

「主治医」の名乗りを上げる医師は、あるいはすばらしい人かもしれないし、とんでもない悪徳かもしれない。 外からはそれが分からないから、この「市場」は、たぶん最初から成立しない。

自由は進化する

厚生労働省のページを見ても、「国を信じてください」みたいなことしか書かれていない。

患者さんが支払うお金とか、年金天引きになるとか、支払いについては詳しいけれど、 新しいルールのもと、医師がどんな「ずる」をする可能性があって、 厚生労働省として、予測される「それ」に対して、どんな抑止策を行うのか。そんな記載が 見つからない。手段は分からないのに「信じろ」といわれても、けっこう困る。

医療の「質」については、医学知識を持たない患者さんには、今でもそれを評価するすべが無い。 患者さんに与えられる治療の「自由度」については、新しい制度はそれを極端に減らすことは 明らかで、そのことを理解するのに、医学知識なんて必要ない。

出来高支払制度の昔は、患者さんが「お金を払うから」といえば、検査だろうが点滴だろうが、 「医療費の無駄遣い」を医師に強制することはできた。それがどんなに必要な検査であっても、 本人が「嫌だ」と断言したら、それを行うことはできないし、お金も請求できなかった。

新しい定額支払制度は、こうした選択ができない。

患者さん本人にできることは、「月に6000円支払うこと」が全て。追加のお金を支払って 何かやろうにも、全てを自費診療にでもしない限り、何か特別なことはできなくなるし、 その検査をどんなに断ろうにも、断ろうが受け入れようが、支払う金額は一緒。 医療者側から提供されるサービスはいつも一定で、それに対して患者さんサイドから できることは、従来の制度に比べて極端に少なくなってしまう。

自由は進化する。一度増えた選択肢が減らされると、たぶんほとんどの人は違和感を感じる。

「国を信じてください」なんて、今も昔も、患者さんは自らに施される医療については「信じる」以外の 立場をとれないのは一緒なんだけれど、選択肢を減らされて、「信じて」なんていわれても、 たぶん信じる人はいない。

今日のお菓子と明日のパン

国にはお金が無くて、高齢者の医療費は、全医療費の3 割以上を占めている。 政治回してる人達にとっては、こうした医療が「無駄」に見えて、何とかしてこれを削りたい。

このあたりの問題意識は、たぶんほとんどの人に、もしかしたら当の高齢者に相当する 人達を含めて、共有されているのだと思う。

「自分が病気になったら、もう何もしないでいいから、苦痛だけ取って、 医療行為に相当することは一切しないでほしい」なんて、技術系の、 そろそろ高齢者なんて声が聞こえてきそうな方々から、時々頼まれる。

もしかしたら自分がよっぽど信用されてないだけなのかもしれないんだけれど、 寝たきりの、チューブで栄養されてるだけの、1 日中叫んでるだけの老親を 介護した経験を持ってしまうと、「自分はここまでしてくれなくてもいい」なんて 思いはある程度共有されるのかもしれない。

お金はない。「今日のお菓子」も「明日のパン」も、両方手に入れるのは、たぶんもう無理。 そんな中でもせめて、「今日お菓子を食べる」べきか、「明日パンを食べる」べきかの選択ぐらい、 自分でやりたいなと思う。

「今ここでお菓子を食べる」のか、それとも今を我慢して「明日のパン」を残しておくのかといった選択権が、 患者さん側には全くない。患者さんは、「お菓子」を出されたら、たとえ満腹でもお金を支払わないといけないし、 「明日のパンは我慢するからお菓子を下さい」なんてお願いしても、そのときそれが出てくるとは限らない。

シンガポール方式がいいと思う

高齢者医療削るなら、やっぱりシンガポール方式 がいいと思う。

ある一定年齢、今の制度だと75歳になったとき、その年齢の高齢者が一生に使う平均医療費を 計算して、その金額を人数割りして、一括して渡す。たぶん一人あたり数百万円になる。

そのお金を大事に使ったり、あるいは投資や運用を行って次世代につないでもかまわないし、 もらったお金を競馬やパチンコに溶かしてしまって、あとは「自己責任」貫くのも、 その人の自由。自由だけれど、その人が生涯に支払う医療費は、その中でまかなわないといけない。

これをやると、ある日突然、数百万円の現金抱えた高齢者が発生する。ガン治すキノコ売ってる人とか、 幸福の壺売ってる人とか大喜びするだろうけれど、こんどはたぶん、弁護士の人達とか、 介護を提供する会社なんかに「後見人」ビジネスを行う機会が生まれる。

司法制度改革で大量発生した弁護士の人とか今困ってるみたいだから、こうした「顧客」の 発生それ自体は、それなりに歓迎されるはず。

「世代交代」には、莫大なお金がかかる。ワーストケース想定すれば、たとえば70歳で両親が 寝たきりになるような病気になって、その人達が要介護のまま90歳ぐらいまで生存すると、 首都圏だったら家一軒買えるぐらいのお金がかかる。年金があったり、20年分割されるから、 その場その場の実感は薄いのかもしれないけれど、「引き継ぎ」にかかるお金は馬鹿にならない。

どこかでまとめてお金を渡して、「使えるのはこれだけ」を実感してもらうのは、 医療費削減とか、「引き継ぎ」にかかるお金を実感するいい機会になると思う。