ムラの条件

やっぱり村社会が好き。「批判は読者の権利です」とか、心にもないこと宣言しながら、 空気の力で、自分の手を汚さないで、叩きに来た人達潰せたら、きっといい気分。

今自分がいる場所は、外からは「村」なんて呼ばれてるけれど、 実際の「ムラ」度は案外低い。「ムラ」目指すには、まだまだ足りない。

一部の意見が全体を左右する

何か書いて発信して、叩きコメントたくさんもらうと、やっぱり疲れる。

最近のページビューは、1日あたり6万人ぐらい。全てのアクセスがblog を見に来るわけではないんだろうけれど、 実際にコメントを残したり、ブックマーク欄に何かメッセージを残す人は、多いときでもせいぜい50人。

批判される文章書いたときなんかは、そのうち半分ぐらいが「叩き」コメント。 読むと疲れる。次に書く文章なんか、間違いなく影響受ける。

「メッセージ」が「全体」に占める割合は、せいぜい多くて1 %。 「叩き」メッセージはその半分だけど、影響は莫大。

叩く人達が、どんなバックグラウンドを持つのかは分からないけれど、 「メッセージ」というのは、ずいぶん効率のいいやりかた。

ネットで何かを発信しても、歪みのない「全体」を実感できるのは、アクセスカウンターの数字だけ。 もっと細かいことを知ろうとしたら、いただいたメッセージを通じて、「全体」を妄想するしかない。

恐らくは政治家なんかも、問題は一緒なんだと思う。相手にしている「全体」の数は圧倒的に多いし、 彼らはなんといってもプロだけれど、あの人達もたぶん、直接陳情を受けるとか、 手紙を書かれるとかデモ行進を見るとか、ごく一部の人だけが発信するメッセージを通じて、 全体を想像する以外、自分たちの判断が正しいのかどうか、リアルタイムに把握するすべがない。 もちろん選挙をすれば、支持者の数ははっきりするんだけれど、それでは遅すぎる。

政治家はしばしば、特定分野の、声の大きな人達の意見ばっかり聞いているように振る舞う。 あれはたぶん、「声の大きな人達」以外、そもそも政治家からは「全体」が見えないからなんだと思う。

あなたを叩いた人はこんなblog も叩いています

コメント欄とかブックマーク欄とか、メッセージを残した人達の立ち位置を 視覚化する手段があると、すごくありがたい。

何か書いて叩かれて、叩いた人のリンクを踏んだら、その人がその人が過去に叩いた ページのリストとか、同じようなページを叩いてる人のリストなんかが 出てくると、叩かれたものどうし、傷の舐めあいできる。叩かれたときのダメージ減らせるだろうなと思う。

「立ち位置」はたぶん、視覚化できる。

コミュニティで、ID を背負って活動する人達を平面展開する。 「右」「左」を横軸、「冷静」「暴走」を縦軸にすれば、 たぶん「その人が所属する場所」が視覚化できる。

なんだかまとめて叩かれて、それを視覚化してみたら、やっぱり特定の立ち位置に 叩く人達が集中してたり、賞賛されてる中で否定的な意見もらって、 その人調べたら「中道」の「冷静」なんて立ち位置だったり。

叩かれたときに「ああこの人達か」なんて納得したり、 自分の立ち位置見直すきっかけになったり。視覚化は役に立つ。

立ち位置に「ゼロ点」作るのは無理だから、評価はきっと、相対評価の積み重ねになる。 ブックマーク欄にもらったコメント読んだり、あるいはその人が書いてる日記見て、 全ての住民が、他の住民を評価して、「自分を中心においたときの、他人の立ち位置」を 表現することになる。みんなの「相対距離」を加算平均すれば、たぶん「全体」が見えてくる。

「住民」が100人の時点で、すでに蓄積される評価数は10000近くなるから、 計算量はちょっと多くなるかもしれないけれど。

コミュニティの中での自分の立ち位置

自分というのは、結局のところ「どう」なのか。ネットで発信している多くの人は、 結局のところ、これが知りたいんだと思う。

「コミュニティの中での自分の立ち位置を」を視覚化してくれるサービスがあるなら、 利用してみたい。

自分自身を「冷静な中道保守」なんて位置づけてたら、まわりのみんなは自分のことを 「既知外サヨク」だと思ってたとか、馬鹿なキャラクターを演じ続けて、 まわりも自分のことを「馬鹿」だと思ってくれてるなんて安心してたら、 実は「すごく冷静な人」なんて見抜かれてたりとか。

コミュニティが見ている「本当の自分」と向き合うと、もしかしたらショック受けるかもしれないけれど、 そんなサービス提供できたら、利用したがる人多いと思う。

匿名が守っているもの

目に見えるルールは何もないのに、コミュニティで共有される「空気」は明らかにあって、 「強い」人はなぜだか自由なのに、新参者がそれやると叩かれる。 法律もなければ警察もいないのに、乱暴者はいつの間にか排除されて、 みんなどこか重苦しい、正体の見えない「空気」に配慮して、 いつも何かにおびえながら寄り添う、そんな「ムラ」が大好き。

「あの人はこういう人」という属性が、ムラのみんなに共有されるようになると、 「ムラ」ルールが発動して、コミュニティを「空気」が包む。

今のネットメディアは、そんな属性の把握と共有がまだ不十分で、 「ムラ」として機能しているコミュニティは少ない。

激しい言葉で綴られた叩きメッセージを読んだ時は、その人が普段どんなことを考えているのか、 自分が書いた文章のどのあたりが、その人の逆鱗に触れたのか、やっぱり気になる。

叩いた人が書いた文章読んで、「この人はこういう人なんだ」という属性が読み取れると、 ずいぶん楽になる。「立ち位置これだけ違うからしょうがないよね」とか、自分に言い訳できる。

叩かれた先に行ってみて、漫画買ったとか映画見たとか、なんだかごくありふれた、 「普通の」日常だけが綴られてる日記を読むと、逆に不安になる。属性が読めないそんな人達は、 何を考えて自分を叩きに来たのか。「祭り」に乗っかっただけなのか、 自分が何か人として相当間違ったことやっていて、義憤に駆られた「普通の人」が、 何かメッセージを残していったのか。

「ネットで発信する人は、全て実名を公表すべき」なんて意見を持つ人達は、 たぶんこんな「属性が見えない人」に対する不安感を、「匿名」という言葉に 代表させてる気がする。同じ匿名の叩きコメントであっても、 立ち位置が見えやすい人の叩きと、そうでない人のそれとでは、 意味あいがずいぶん違う。

「匿名」という立場が守っているものは、名前それ自体なんかじゃなくて、 「属性」の不可視性なのだと思う。名前を公開しなくても、属性を可視化するだけで、 きっといろんなものが変る。

属性の共有が「ムラ」を作る

「ムラ」の中では、住民の属性が共有される。 叩きコメントを連発する人は、そのうち「こういう人」という 認識が共有されて、叩くほどに叩きパワーは低下して、そのうち排除されてしまう。

普段は「叩き」なんかとは無縁の属性背負った人が誰かを叩いたら、たとえそれが 小さな声であっても、「村の空気」は大きく動く。「ムラ社会」ではだから、 ルールがなくても「空気」があって、匿名を維持していても、 おそらくは実名志向の人達が目指してるようなコミュニティが、 記述されたルールなしに実現できる。

「あなたを叩いた人は、こんな blog も叩いています」という、傷の舐めあい検索、 「自分を含めた住人の立ち位置」を可視化する立ち位置チャート、 「あなたはこの方面から叩かれています」という情報を伝える炎上レーダー、「ムラ」を支える インフラは、こんなイメージ。

ネット世代の「ムラ」は、それでも「空気読まない人」、立ち位置チャート作っても、 存在がチャートに類型化できないような、そんな人達がもっと自由に振舞える場所になる。

実世界のムラと違って、ネット世界には目指すべき目的とか、ムラの繁栄とか、方向性が存在しない。 道徳も正義も法律もいらない、「強度」が「空気」を生んで流れを作る、そんな「ムラ社会」はきっと楽しいと思う。