ミームのこと

ウィルスみたいに「広まる」文章は、「権威付けがなされていること」、 「具体的であること」、「読者を鼓舞すること」といった、共通する性質を持っている。

内容が不正確であったり、勧めていることが違法であったりしても、 たぶんこんな条件を備えた文章は「ミーム」となって広まって、 いつかどこかで実行されてしまう。

デキサメタゾン大量療法

研修医の頃、脊髄外傷に対するデキサメタゾン大量療法のやりかたが論文になって、 救急部の部長がやりかたを貼りだした。

脊髄外傷患者に対するデキサメタゾン大量療法
脊髄外傷患者を診たら、「デカドロンを○アンプル静注、その後24時間かけて、生食100ml にデカドロン○アンプルを 溶解したものを持続静注

張り紙に書いてあったのは、部長の名前と、元の論文名と、具体的なやりかた。

体重あたりの計算は省略されていて、 読んだらすぐに実行できるように記述されていて、最後に一言「これは効くよ!」なんて書かれてた。

脊髄外傷の患者さんなんて、年に数人しか来なかったし、普段はもちろん、 そんな人は脳神経外科に入院するから、研修医がそれをやる機会なんて滅多になかったけれど、 あの張り紙をメモした研修医は多かったはず。

ウィルスとしての言葉

言葉にはたぶん「感染力」みたいなパラメーターがあって、言葉の「重さ」とか「正義」とか、 あるいは科学的な正しさというものは、感染力にはほとんど影響しない。

  • どんなに薄っぺらなものであっても、「権威」が正当性を担保していること
  • 勧められていることが具体的であって、読者が何か思考する必要がないこと
  • 最後に「これをやった人は勇者」みたいな、読者を鼓舞する要素を持っていること

文章の感染力というものは、たぶんこんな条件が決定して、全てを兼ね備えた文章は、 それがどんなにいいかげんなものであっても広まって、どこかで実行されてしまう。

「正しい知識」というものは、感染を始めたミームに対する治療効果を持たない。

正しい知識はその人に免疫を付与するから、「感染」以前なら、 知識はミームに対するワクチンとして作用する。 ところが、今まさに「感染」して、ミームに従って何かを実行しようとしている人に、 今さらそれを「間違いだ」と指摘したところで、その人は実際にそれを試してみるまで、 指摘の正しさを実感できない。

「間違ってる」という指摘は力を持たないし、ましてや「信じる奴は馬鹿だ」みたいな言葉をぶつけると、 ミームの感染力は、むしろ強くなってしまう。

最近になって爆発的に広まっているのは、硫化水素中毒のやりかた。

今週に入ってからもう10件、似たような中毒が相次いでいて、 みのもんたが「誰のせいでこんなことに…」なんて、朝のテレビで憂いてた。

硫化水素中毒のやりかたは、一気に広まった。某巨大掲示板に書かれていた やりかたは具体的で、恐ろしく分かりやすかった。使う薬品名は「商品名」であって、 ガスを発生させるのに必要な器具とか、薬品の量なんかも、具体的に指摘されていた。 そのやりかたを書いた人は、もしかしたら専門家でも何でも無かったのかもしれないけれど、 やりかたは一人歩きして広まった。

「感染」に対抗できるのは、ウィルスそれ自体の作用を止めること。

書き込みが指定していたその製品に規制をかけたり、あるいはもっと単純に、 商品名を「新○○」なんて変更するだけでも、ミームの蔓延は減らせると思う。

そんなことをしたところで、塩酸とか硫黄を含んでいる製品はたくさん発売されているし、 ホームセンターに行けば、代替品は容易に手に入れることができるけれど、 そんな知識を持っている人は、そもそもミームに対して「免疫」を持っているはずだから、 ガス作ろうなんて思わない。

ミームに「感染」して実行する人は、裏を返せばそんな知識を持っていないことがほとんどだから、 恐らくは商品のラベルを書き換えるとか、そんなごく単純なやりかたをするだけで、 実行する閾値を高められるはず。

やっぱりテロが怖い

硫化水素を用いた化学テロ」という考えかたが、「ミーム」となって蔓延したら、 相当怖いことになると思う。

今の段階、「ガスを用いたテロの可能性」なんてものを、知識持った人が心配してるだけの 現在ならば、それをやれる人は、間違ってもそんなことしないだろうけれど。

ミームとして広まる「それ」は、たぶん専門知識を持った人が見たら、唖然とするほど いいかげんな、間違った知識で固められたものになる。

「権威」を担保する研究者はもちろん実在しないし、大学名なんかも、 専門分野なんかは考慮されなくて、ただ単純に「漢字が多そうなところ」みたいな 基準で選ばれた、適当なもの。

やりかたはきっと具体的だけれど、場所であったり用意すべき道具であったり、 そんなものは全ていいかげんで、応用のしようがなくて、 もしかしたら実行した人自身が巻き込まれるような やりかたが書かれているけれど、とにかく全て「具体的」に書かれているから、 そのとおりに実行するだけなら、知識が無くてもできるはず。

最後は鼓舞。

いつか出てくるそんなミームは、きっと「これ実行したら勇者」みたいな、 薄っぺらな鼓舞で締めくくられる。

それでも専門知識を持った人達は、 それを見て笑ったり、叩いたりしたらいけないのだと思う。そうした行為はたぶん、 すでに「感染した」不特定多数の人達の、背中を押してしまうから。

うちの近所のホームセンターでは、今でも普通に、くだんの薬品が手に入る。 ネットを通じて、そんな文章が出てきたときは、「それができないようにする」、 その商品を一時的に撤去するとか、成分をわずかだけ変えるとか、単純なやりかたで かなり防げるはずだから、やっぱり何か対策したほうがいいと思う。