正義の敵は正義

ここ2 日間のプチ炎上について。

背景など

動悸はごく素朴。

憲法に関わる高等裁判所の判決が出て、「自衛隊やっぱ間違い」なんて、 けっこう踏み込んだ判決が出た。はてなブックマークでそれ読んでたら、 元検事の方が言及してて、判決出した裁判官は定年間近で、 今回の判決文読んだのは、本人じゃなくて後任の人だったなんてことを知った。

ごく単純に「ずるい」と思った。踏み込んだ判断出して、自分は判決出し逃げして 玉置に逃げ込んで。来年になったらリベラル派のコメンテーターとして、 古舘伊知郎あたりとよろしくやってる姿とか想像して、なんだか腹立った。

最初はtwitter

「ずるいと思う」とか、「対案示せ」とか、ぐだぐだと書き流した。

いろいろ指摘をいただけた。 立法権・行政権の侵害はできないこと。司法が民主的統制を受ける範囲のこと。 訴訟法上、政策を争うことはできないこと。何よりも、裁判官だって人間で、 ああいった踏み込んだ判決出すときには、すごいプレッシャーにさらされるものだということ。

なるほどなと思った。

とっさに思いついたわだかまりを解消するのに、インターネットという道具は本当に便利。 ぐだぐだ書いて、書きながら、リアルタイムに自分の「穴」を教えてもらいながら、 自ら空けた穴を見ながら、また書いた。穴だらけのエントリーが一本出来た。

わだかまりの解消手段が知りたかった

夜中に帰って、録画したニュースを見た。ずいぶん年季の入った市民団体の人達が、 「我々の実質勝利だ」なんて、雄叫び上げてた。

判決が解説されてた。判決それ自体は、被告となっていた政府の「勝利」であって、 市民団体の人達が喜んでた部分というのは、あくまでも判決の傍論として述べられたものだから、 政府側にはその判決を否定する権利は発生しないのだと。

やっぱり「ずるいな」と思った。今までの自分の立ち位置で行くと、今回の判決みたいな、 名を譲りつつ勝ちを拾いに行くやりかたは、むしろ「上手」と賞賛すべきなんだろうけれど。

エントリーは穴だらけだったけれど、自分が感じた「ずるさ」みたいな感覚を、 他の人達がどう折り合いつけてるのか知りたくて、blog に上げた。

三権分立勉強し直せとか、法律守れとか、ネガティブコメントがたくさん来た。 「穴」を指摘して叩くコメントは、ある意味予想の範囲ではあったけれど、やはりびっくりした。

そもそもみんな、法律とか憲法とか、そんなに大切に考えてるものなんだろうか ?

判決とか、ニュースでの解説読んで、自分は素朴に「ずるい」と思った。 ネット世間だと、自分よりも冷静な人とか、法律に詳しい人がたくさんいるから、 自分の思いはすぐに「まあそういうものなんだろうな」なんて場所に落ち着いたけれど、 あのニュース見て、「やっぱ三権分立最高」だとか、「あの裁判官は男の中の男」だとか、 うちなんかに叩きコメント残した人達は、「ずるさ」全く感じなかったんだろうか?

「自分もそう思う」みたいな同意コメント。「法律勉強し直せ」みたいな叩きコメント。 あのエントリーにいただいた反響は、だいたい半分ずつだったけれど、 叩く側の人達から、「私はこうして折り合ったから心が平和です」みたいな 意見がいただければ、自分としてはもっとありがたかったのだけれど。

正義の敵は正義

正義の勝ち軸に敵対するのは「悪」でなく、「別の正義」。

正義に「絶対」はないように、 反論を許されない「絶対悪」なんて存在もまた、せいぜいゲームの世界にしか存在しない。 叩かれても変わらない。依って立つ正義が違う人達と議論するのは、たぶんすごく難しい。

自分が立ってる「正義」というものは、たぶん世間一般の人が共有しているそれから見れば、 相当にゆがんでるんだろうけれど、ゆがんでるからこそ観察対象になっていて、 たぶんある程度の読者がついてる。

残念ながら、だから一般的な正義の立ち位置から叩かれても、そこを直したいなんていう 気分にはなれないし、それをやったらたぶん、うちのページからは、読者がいなくなってしまう。

blog には「トラックバック」という機能がついている。 議論を通じて相手を変えるやりかたをしない、「力ずく」で相手の論理を潰すための道具。

立ち位置が違う相手の意見を潰したかったなら、自ら依って立つ正義に沿った、 もっと面白い文章書いてトラックバックして、読者を根こそぎ奪ってしまえばいい。 その人自身は何も変わらないかもしれないけれど、読者を失った意見は失速して、 どんなに声を張り上げたところで、もはや力を失ってしまう。

立ち位置の違う人からトラックバックいただいて、アクセスを根こそぎ持って行かれたり、 お互いもらった「はてなブックマーク数」で大差つけられたりしたときなんか、本当に 惨めな気持ちになる。

今回のエントリーについても、何本かトラックバック をいただいた。冷静な、大人の意見。リファラがすごいことになってたから、うちのサイトはたぶん、 相当数の読者をもってかれたんだろうけれど、「正義は読者が決める」こんなやりかたは、とてもいいことだと思う。

「対話」に必要な帯域幅のこと

ネット世間は、「穏やかな弱肉強食」ルールがいいなと思う。

世間にはいろんな価値軸があるけれど、お互い歩くの大変だし、 ぶつかったときには顔が見える。「対話」というのはたぶん、 それを成立させるためには、相当広い帯域を必要とするやりかた。

ネット世間は狭いから、どうしてもいろんな価値観がぶつかりあうし、 回線は細くて、コミュニケーションに文字だけしか利用できない。 「対話」ルールを成立させるだけのインフラは、まだまだ整っていない。

コメント欄では、言葉だけ丁寧な、外面穏やかなのに、険悪な対立議論。 見てて疲れて、時間をいくらかけても、お互いやりとりする情報量が圧倒的に少ないから、 いつまでたっても「対話」にたどり着けない。

ブロードバンド時代になってもなお、言葉を尽くしたネット議論は、「身振り」や「手振り」を 実装できないし、「握手」一つが持つ情報量にすら、言葉はまだ追いつけない。

価値軸をあわせるのは大変だし、お互いのベクトルを比べるなんて無理だけど、 それぞれ依って立つ「正義」には、強度というパラメーターがあって、 アクセス数とかブックマーク数とか、今ネット世間で通用する数字要素は、 そんな強度を可視化してくれる。

価値を決定する道具として、そんな数字はまだまだ不完全な代物だし、 「数」に影響を与える人もまた、ネット全体から見ればごくわずかなものだけれど、 「声の大きさ」競争を延々やるのに比べれば、正解に近い気がする。

叩くエネルギーでエントリー書いて、相手の読者根こそぎ奪い合う争いしたほうが、 お互いメリット大きいと思う。