司法も対案示してほしい

空自イラク派遣は憲法9条に違反しているという判決が出た。 名古屋高等裁判所

たしかに正論なのだろうし、この判決は、一応政府側の「勝ち」ということになってるみたいだけれど、 テレビではなんだか、市民団体の人たちが「我々の勝利だ」なんて、雄叫び上げてた。

軽い言葉のこと

曲がりなりにも選挙で選ばれた人たちが、何年もかけて議論して、海外に軍隊派遣して。

政府の人たちも、もちろん現場守ってる自衛隊の人たちも、派遣に賛成する人、反対する人、 みんな様々な立ち位置もって、いろんな場所で議論とか、政治運動を重ねてきたのだろうけれど、 そんな積み重ねの決着は、あっさり一言。「あれ全部間違い」なんて。

「正しさ」重ねて下した結論は、なんだか正しいのは間違いないんだけれど、すごく軽い気分。 自衛隊派遣に反対の声上げてた人たちだって、なんだか馬鹿にされたような気分に ならないんだろうか?

なんだか司法の人たちが操る言葉は、軽い気がする。

人手が全く足りてない医療現場での、医師の不作為を問う裁判とか、今回みたいな、立法とか行政、 あるいは市民団体の人たちが積み重ねてきた苦労を全部吹き飛ばす判決だとか、 すごく多くの人たちが関わって、舵をどちらに切ったところで、現場が大混乱するのは間違いない判断なのに、 出された言葉はすごくあっさり、軽い印象。

もちろんその判断を下すためには、司法内部で議論したり、勉強したりといった過程はあって、 それは判決文として、その議論プロセスがある程度公開されてはいるんだろうけれど、 投げられた判断には、「じゃあどうすればいいのか」が見えてこない。

国会間違ってた。政府間違ってた。たぶん今回の判決で、政府のいろんな思惑はひっくり返って、 表から見えないところでは大混乱したり、命の危険侵してた現場仕事が、あっさり「あれ間違いだったよ」なんて 断定された。たぶん今、多くの人たちが困ってる。

「それはそもそも司法の仕事じゃないんだよ」なんて返されるのがオチなんだろうけれど、それでもやはり、 司法の人たちには、判断を下した以上、その判断に基づいた対案を示してほしいなと思う。法律読んで正しさ重ねて、 重ねた正しさの延長に下された判断は、たしかに正しいのかもしれないけれど、判断ぶん投げて 現場を混乱させて、「おまえら間違ってるよ。あと自分で考えな」で法廷閉じるのは、素人目には無責任に見える。

対案なき批判に意味はあるのか

対案なき判断には、やっぱり意味がないと思う。

誰だったか、「対案示せ」なんて要求するその態度こそがリベラルどもの欺瞞だなんて言ってた人がいたけれど、 対案一つ示せない批判もらっても、議論が生まれない。議論生まないなら、ノイズと一緒。

法律上、それは裁判官の仕事ではないのかもしれないけれど、判断を下した裁判官の人は、 やっぱり自分の判決に基づいて、行政は、あるいは医療は、今の能力をどう使えばいいのか、 やっぱりそれを「自らの市民感覚に基づいて」提案してほしいなと思う。

司法の人たちだって万能ではありえないし、あるいは専門家から見れば、 その「対案」は床屋談義レベルにしか過ぎないのかもしれないけれど、 対案を見せていただけるのならば、その裁判官は、いったいどんなことを考えて、 どんな未来を見据えてその判決を下したのか、判決文よりも、ずっと分かりやすくなる。

法律に則っていたようで、実は経済合理性優先してたとか、現場の大混乱分かってたけれど、 あえて正しさ表現してみましたとか。判断を下した「先」に対する考え分かれば、きっと議論が生まれる。 もちろん分かりやすいアイデアは批判されて、多くの味方と、あるいはもっと多くの批判的な意見に さらされるんだろうけれど、そんな「床屋談義」レベルの思考を世間の批判にさらせないのなら、 その人はやっぱり、世間大混乱させる判断に関わるべきじゃないと思う。

表現する人達

裁判官の人達は、判決それ自体を「自己表現の場」として利用してるように見える。

医療過誤裁判、とくに業界が紛糾するようなそれは、地方裁判所レベルの判決は、 しばしば極端にどちらか一方の側に偏っていて、なんだか結論が最初から見えてるみたい。 そんな極端な判決は、上級審に入るとたいてい修正されて、もっと穏当な、両者の意見を汲んだ結論に落とされる。

議論がどんなに偏ったところで、最高裁判所にまで上がってしまえば、「高度に政治的な問題のため、 司法の範囲を超える」なんて司法が逃げて、結論はなんだかうやむやになったりもする。

邪推にしかすぎないけれど、地方裁判所レベルで判断下す人達は、「どうせ上級審行ったらつまらない結論に戻るだろ」なんて、 自らの判断を軽く考えて、時々とんでもない判決おろして、現場吹き飛ばして、それを自己表現にしている気がする。 自分たちがblogスペース借りて、自分の意見を書き散らして発信するのと、なんかすごくよく似てる。 どうせ何も変わらないからなんて、無責任になれるところとか。

時々出てくる極端な判決は、「市民感情に配慮する」とか、その裁判官なりの立ち位置に基づいた自己表現であって、 利害が対立する両者の意見聞いて、法律を正しく運用した結果としての結論とは、なんだかかけ離れているような気がする。

イラク派遣の判決は、選挙で選ばれた人たちが考えて、議論して、判断した経過をまとめて、司法は「間違い」と断じた。 国会議員は、それでも選挙民の医師を背負ってあの場所にいるわけだけれど、それを「間違い」と断じた司法の人達は、 そんな選挙民の医師に拮抗するだけの「何か」を、あの場所に賭けているのだろうか?

賭けるものなんてなくて、「司法はあくまで法律運用するのがお仕事で、ちょっと 何かを表現したかったので、あんな判決出してみました。大丈夫、上級審ありますから」なんて返事が返ったら、 きっとみんな怒ると思う。そんなことは、裁判官の人達も言わないだろうけれど、彼らは判断だけ下して 対案示さないから、その言葉はショッキングなのに、なんだかすごく軽い。

元検弁護士のつぶやきによれば、今回の違憲判決を下した裁判官は、 この判決を最後に裁判官を引退される方らしい。

お辞めになる前の最後の裁判だったわけですね(^^)

blog 書いてる司法の人は、笑顔の顔文字入れて、こんなこと書いてた。こんなこと書いてるぐらいだから、 この裁判官の判決は、司法のプロからみても、要するに、「辞め際のどさくさに紛れた自己表現」なんだろう。

たとえば自分なんかが他科の手術みて、「また死んじゃいましたね(^^)」なんて書いたら、 きっと大変なことになる。うちの業界は、少なくともこういうことは絶対茶化せない。

これだけ大きな判決の感想書くのに、顔文字使って笑ってる時点で、やっぱり司法の人たちは、なんかずれてる。 もう少しまじめにやったほうがいいと思う。