「能力ある人の不作為」という罪悪

動物愛護団体の人たちが「すばらしい人」なんて引用するのは、 圧倒的にマザーテレサが多いらしい。ほかの偉人とか、ましてや 経営者の言葉なんて出てこないらしい。

マザーテレサは、もちろんすごい人であることには間違いないのだろうけれど、 あの人は同時に、「もっとすごいことが出来たのにやらなかった」人なんだと思う。

マザーテレサのこと

マザーテレサは、世の中どうにでも出来るぐらいのすごい力を持っていたのに、 目の前の難民を救うことに全精力をつぎ込んで、「もっとすごいこと」には興味を示さなかった。

悪い言いかたすれば、マザーテレサは能力を持ちながら、怠惰だった。

社会的な立場も、ネームバリューも、あるいは「集金能力」みたいなものも、 マザーはあれだけの能力を持ちながら、自分が「きれい」でいたいがために、 もっと泥臭い、経営の世界に踏み込まないで、難民キャンプの現場にとどまって、 「本気を出せば」救えたはずの、もっと多くの人を救おうとしなかった。

マザーテレサは、たしかに率先して難民の手足を洗ったかもしれないけれど、 そんな仕事は、マザーテレサに比べれば圧倒的に時給の安い人にだってできた。 マザーテレサがちょっと頼めば、100人雇用することだって出来ただろうし、おそらく「雇用」は、 マザーテレサ本人が足洗いに乗り出すよりも、もっと多くの人を喜ばせたはず。

あの人はむしろ現場から離れて、率先してベンツに乗って、プライベートジェットで世界巡って、 寄付をかき集めて「商売」をやるべきだった。マザーテレサならたぶん、難民キャンプ選りすぐりの かわいい子供にボロ着せて、ニューヨークのまっただ中で寄付募るとか、 もっとあざといまねしたところで、世間は反発しなかったと思う。

そんなやりかたはもしかしたら、キリスト教価値観では「汚い」ものかもしれないけれど、 カルカッタの施設1 年分の運営費なんて、たぶんほんの1 日で稼ぎ出せた。

マザーテレサクラスの能力があれば、あるいは存命中、これまでの100倍の人にご飯を配れたかもしれないし、 ワクチンを配布することも出来たかもしれない。

あの人はもしかしたら、自らのスタイル貫くことを最優先して、もうちょっと本気出せば 余裕で救えた多くの人たちを、スタイルのために見殺しにしたのかもしれない。

「能力ある人」の不作為

たとえばスーパーマンが実在する世の中で、本人が環境保護活動に目覚めたら、 スーパーマンはその能力を放り出して、河原でゴミ拾ったりするかもしれない。 たとえ目の前でジャンボジェットが墜落しそうになっていても、河原で弱った子猫見つけて、 猫保護するのに全リソースつぎ込んだなら、ジャンボは墜落するかもしれない。

環境保護活動に汗を流すスーパーマンは、たしかに「いい」人なんだろうし、 環境保護活動とか、動物愛護の活動なんかは「正しい」ことなんだろうけれど、 ジャンボジェットが墜落したら、人々はスーパーマンの不作為を責めると思う。

世の中には明らかに「能力が高い」人がいて、その人たちはしばしば、「きれいさ」とか 「正しさ」みたいな間違った価値観にとらわれる。その能力を全て発揮する前に、 「いい人」である自分に甘んじて、勝ち逃げしようとしたりする。

マザーテレサは間違いなくすごい人で、もちろんいい人だったのだろうけれど、 もしかしたらその「すごさ」を全て解放して、お金とご飯とに換える前に、 「きれい」なまま亡くなった。

そんなやりかたは、みんなもっと「間違ってる」と批判しないといけない。

好きを貫くことは大切で、マザーテレサの「好き」は、たしかに大きな成果を生み出したけれど、 たぶんあの人が本気出してたら、もっともっとすごい結果を出せていた。 あの人がもしも、冷酷な拝金主義者だったのだとしたら、難民キャンプは それ自体が「産業」になって、ちょっとした観光地になっていたかもしれない。

もちろんそうなったら、キャンプはたぶん、平等とは縁がなくなって、壮絶な格差社会に 変貌したかもしれない。それでもたぶん、飢えてなくなる人の数は、 マザーテレサが「きれい」でいたときよりも減った。

マザーテレサ批判する側のお話読むと、頑固で融通が利かない側面があったりとか、 実はけっこうお金に汚い側面あったりとか、 いろいろ出てくるみたいだけれど、むしろそのほうが人間くさくて親しめるなと思う。 それを見ないふりして、「きれい」だけを褒めそやす人たちというのは、やっぱり何か違和感がある。

「正しさ」とか「よさ」みたいなものを、不作為の免罪符にしてはいけないんだと思う。