制約が自由を感覚させる

自由が行き過ぎるとテキストになる

次世代のインターネットだとか、ユーザーの自由度が極めて高いだとか宣伝された 「セカンドライフ」は、むしろ不自由な世界だったのだろうと思う。

セカンドライフ世界では、ユーザーは街を歩けるし、誰とでも会話が楽しめるし、 いろんな品物を購入できて、空だって飛べる。たしかに何でもできるんだけれど、 ユーザーの自由度をもっと増して、たとえばユーザーが「壁抜け」自由になって、 「テレパシー」機能が実装されて、会話が全て盗聴できるようになったなら、 ユーザーにはもはや、「歩く」だとか「飛ぶ」、会話をするために誰かに近づいたり、 街の中で誰かを捜すといった行為に、理由がなくなってしまう。

自由度が増すと、ユーザーを取り巻く世界は、だんだんとその意味を失っていく。

ユーザーは歩けるし飛べるけれど、遠くが見えないし、壁を抜けることもできない、 そんなセカンドライフ世界から始まって、ユーザーに様々な「自由」を付加していくと、 地形だとか、複雑な建物だとか、世界に用意された様々な制約は、意味を持たなくなってしまう。

ユーザーが最大限の自由を得た先にあるものは、ありきたりなチャットサービスだとか、 テキストメディアを主体にした、旧来のインターネットそのものなんだろうと思う。

制約が意味を生む

キーボードを使ったおしゃべりしかできないチャットサービスと、 現実世界そのままの風景が楽しめて、殺人以外は事実上何でもできたセカンドライフ世界と、 ユーザーの自由度は、セカンドライフのほうが高そうに見えるけれど、 その「自由」というものは、セカンドライフ世界に実装された、 様々な「制約」から作り出された。

セカンドライフ世界では、ユーザーは、壁だとか、建物をすり抜けられないし、 遠く離れた相手がどこにいるのか、探さないと分からない。「できない」ことが、 歩くだとか、向こう側を見るだとか、そういう行為に意味を付加して、 ユーザーは、自由を感覚する。

セカンドライフ世界では、離れた相手とは会話ができない。世界に「距離」という制約が導入されて、 ユーザーには、世界を移動して、相手を探すことに、合理的な理由が生まれる。

テキストしか使えないTwitter 世界では、そもそもあらゆる会話がタイムラインで素通しだから、 誰かを「探す」理由が生まれない。そこにいない相手であっても、会話に @ をつけるだけで、 簡単に「声」を届けることができる。

「見る」とか「探す」、「移動する」といった手続きは、Twitter 世界では、なんの意味も持たない。 意味がないから誰も試そうとしないし、結局みんな、テキストでのおしゃべりに収斂してしまう。

デザインされた制約が自由を作る

テキストを用いたおしゃべりというやりかたは、だから「不自由」なのではなくて、 逆に自由すぎる環境が、あらゆる行為を無意味化していった結果として、 全ての人が、同じやりかたに収斂した結果なのだと思う。

「何でもできる」ことは、多様性を殺してしまう。

相手を探す必要のない世界では、探索することに意味が生まれない。どんなに見事な風景を作っても、 1 回通り過ぎたら飽きられる。

グラディウスのフォースフィールドが無限に強くなったら、地形も抜けられるし、弾に当たっても死ななくなる。 ユーザーの自由度は最大になるけれど、動くことに一切の理由がなくなるから、 ゲームはつまらなくなってしまう。

実際の制約の少なさと、ユーザーの感覚する自由さとは、たぶん同じ方向を向いていない。

ユーザーが「なんて自由度が高いんだ」と思えるゲームは、他のゲームに比べて、 ユーザーに許される選択枝の幅自体は、それほど変わらないのだと思う。

「自由なゲーム」はその代わり、導入した制約によって意味を与えられた動作や戦略に自覚的で、 世界を一連の制約としてデザインするから、ユーザーにとっての意味のある選択枝が、 他のゲームよりも多くなっている。

「ユーザーは何でもできる」を素直に実装してしまうと、ユーザーは、 たぶん「最適なやりかた」に収斂してしまって、結局ユーザーは、自由さを感覚できない。 ゴールに向かわない選択肢がいくら増えたところで、それは実装者の独りよがりに過ぎなくて、 ユーザーはたぶん、それを「自由」とは認識しない。

多様であるためには、トレードオフがなくてはならない。

トレードオフを上手にデザインできたルールの下では、それぞれの選択枝に、 優劣が発生しない。どれを選択しても、長所と短所が必ず発生して、選択が、 本質的な優劣を生まないような状況になって、はじめてそのゲームは、 「選択枝が多様で自由である」と認識される。

多様性を担保するものは、自由さそれ自体よりも、むしろ制約デザインの巧妙さなんだろうと思う。

追記。「それを選択できる」ことと、「それを作ることができる」こととは、自由度の点では同じだけれど、 後者のほうが、ユーザーは、より自由を感じる。行為と意味とが、後者のほうが、より一体化しているような気がする。

ウルティマオンラインの「バッグボール」は、ゲーム世界の 部品を使って、ユーザーがルールを作ったけれど、たとえば後発のゲームメーカーが、 より洗練されたゲームを、ゲーム世界内で遊べるようにしたところで、ユーザーはそれを進歩と感じないかもしれない。