パッチワークとしての言葉
コメディアンの「爆笑問題が」、テレビでプロファイリングの専門家を取材していた。
片割れのほうは相変わらずうるさかった。神戸連続児童殺傷事件のことが話題になってて、「俺は最初から、犯人が子供だと分かってました」とかしゃべってた。
あの脅迫文はたしかに整っていたけれど、あれはあくまでも「パッチワーク」であって、 つぎはぎ切り貼って大人文章目指すのは、要するに子供のやりかたなんだと。
この人はたぶん、自分の言葉で文章書いてるんだろうなと思った。
最初はパッチワーク
もうずいぶん昔、ブログとか書き始めて半年あまりは、自分はずっとパッチワークだった。 いろんなサイトをかけずり回って、面白そうな文章探してきては切り貼って、 「継ぎ目」を一生懸命整えて、一見自分で書いたような文章を仕上げて載せる。
まだまだぎこちなかった「自分の言葉」は、なんだか上手な人たちの言葉に比べるといかにも 陳腐で、子供っぽくて、比べるのが嫌だった。もっと上手な人の言い回しもらってくると、 自分の文章が大人びて、「高尚」そうに見えた。一生懸命切り貼った。
パクリはパクリなりに一生懸命書いてたし、アクセスもほとんどなくて、何度も 書き直したりしてたから、たぶんその頃の文章だって、外面はそれなりに 整ってたはずだけれど、時間がたってたくさん書いてみて、 何だかつながりの悪さが目についた。
「継ぎ目」は目につくようになると気になって、どう整えても流れが乱れて、 そのうち切り貼るの面倒になった。
身につく「流れ」のこと
たぶんたくさん書くことで、「流れ」みたいな感覚が身につく。
切り貼った文章は、見た目はたしかに整っているんだけれど、どれだけ文章を整えても、 やっぱり「流れ」が悪くなる。自分の言葉で文頭から流してきて、 もっと上手な、パクってきた部分に入ると目線が乱れて、何だかそこだけ目立つ思えてくる。
流れを重視して、パクるの減らして、自分の文章は、全体に子供っぽい、 陳腐な表現が増えたけれど、何となく自分のリズムみたいなものが出来て、 今でも一応続けてる。
爆笑問題の片割れは、やっぱり言葉のプロなんだろうなと思う。 それが小説であれ、コントの脚本であれ、あの人たちはたぶん、 当時から自分の言葉を記述して、多くの人に表現する必要に駆られていて、 そんな経験がたくさんあったからこそ、犯人が書いた文章に埋もれる 「縫い目」に対する違和感もてたんだと思う。
「iモードストラテジー」のこと
iモード躍進の立役者として大活躍していた夏野 剛 という方が、 「iモード・ストラテジー」という本を書いている。
iモードという全く新しいビジネスは、今までにはない考えかたと、価値観とを 基礎に作り上げたもので、その成功は、いわば最初から予定されていたなんて。種明かしの本。
iモードは大成功していたし、作者もまた、iモード成功後もNTT に残って大活躍されたすごい人なんだけれど、 「iモードストラテジー」という本それ自体は、何だかパッチワークだなと思った。
ベストセラーになった「iモード事件」の中で、夏野 剛 という人は、 先の見えない状況を直感で切り開いてしまうような、勢いにあふれた、 すごく魅力的な人物として描かれる。
「iモードストラテジー」は、まさにその本人が書いた言葉であるはずなのに、 本の中には複雑系のバズワードがたくさん出てきて、言葉は小難しい、借り物っぽい言葉に あふれてて、何だか「小物」っぽい、自らを大きく見せようと必死になってる様が透けてくるようで、 ちょっと残念だった。
本人の実像は、あれだけの壮大なインフラを築き上げて大成功した人物なんだから、 実際問題すごくないわけがなくて、たぶん自らの目で経験したことを そのまんま記述するだけで、誰もが心躍る冒険譚を紡げるはずなのに。
読者の邪推にしか過ぎないんだけれど、あの本を書くときに、 作者の人はたぶん、描かれた自分と対峙したんだと思う。描かれた自分の「きれいさ」に 負けて、きれいな言葉を切り貼ることから自由になれなくて、あんな言葉紡いだんだと思う。 本当は、「本物」のほうが何倍もかっこいいのに。
その人が「すごい」人であればあるほどに、その人にははきっと、 「きれいな自分」に打ち勝つ仕事が発生する。文章の整いかたとか、かっこよさとか、 外面整えること考えてパッチワークに走ってしまうと、読者にはたぶん、「縫い目」ばっかりが目に入る。
見えたものを見えたように、自分の言葉で記述することが大切なんだと思う。